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「尊さま、お早うございます。朝餉の支度が済んでおりますよ」  さて、命のところへ膳を届けなくては――。  起こしに来てくれたおばあさんに蔵へ運ぶ食事のことを尋ねると、何やら渋い顔をされてしまった。  どうせ命と話に行くのだから、朝餉を運んでやれば手間が省けると思ったのだが。   「あの蔵へはお近づきにならないよう、ばあやは何度も申し上げているではありませぬか!」  昨日会った忙しない女の子に頼めば、また膳を運ぶために鍵を貸してもらえるかもしれない。そう期待して台所に向かうと、彼女は今日も俺を「新米の丁稚」と勘違いしてくれた。   「兄さま! もう会いに来てくださるなんて」 「あ……もしかして早すぎた?」 「そんなとんでもない! さぁさどうぞ、ここへお掛けになってください」    命は格子の突き刺さった座敷の縁に座るよう促すと、外の話をねだってきた。本当は命のことについて聞いてみたかったのだが。  この時代のことはよく分からないので、俺の時代の話をしてみる。 「学校って分からないかな。ええと、寺子屋? そこでみんな勉強してるんだ。あ、勉強は、学問……?」  古語の勉強をしておけば良かった、と思う日がまさか来ようとは。  翌日も、そのまた翌日も、ばあやの目を盗んで命の元へ通い続けた。 「兄さま、本日もお待ちしておりました!」    上手く話せていないと自分でも分かるのに、命は心地よい反応をくれる。俺と年が変わらなさそうなのに、まるで大人と話しているみたいに会話上手だ。  チャンネルの登録者には悪いが、顔の見えない数百人に向かって話すよりも、命ひとりと向かい合って話す方がずっと楽しい。 「ほら、これが体育祭の時の写真」    命にスマホの画面を見せると、「写真とは何か」、と尋ねられた。   「え~っとね、何て言ったらいいんだろう。一瞬のことを切り取って、見たい時にいつでも見られる……みたいな? あ、でも絵じゃなくて、ほら、本物と同じみたいに写るの」  実演してみせると、命は興奮気味に手を叩いた。 「あっぱれですね! 外にはそのようなものがあるのですか」  この時代には、まだ写真すら発明されていないかもしれない。  まったく外の様子を知らないようだが、命はいつからここにいるのだろうか。 「あのさ、どうして命はここに閉じ込められているの?」  命の顔から、朗らかな笑みが消え去った。  やはり触れてはいけないことだったのだろう。しかし折角仲良くなれたというのに、このまま格子越しに話を続けるのも気分が悪い。 「……また明日、出直していただけませんか? きっとお話しします」  約束通り蔵へ行くため、今日も台所で働く女の子の元へ向かう。しばらく通って分かったが、「のじゃ」少女は(はな)というそうだ。 「連日大儀じゃな! おや、ひどい寝癖よのぅ。支度部屋の姿見で直してから行ったらどうじゃ?」  そんなにひどいのだろうか、と頭を撫で付けてみたが、よく分からない。とりあえず言われた通りにしようと、台所から出ることにした。   「済んだらさっさと向かうんじゃぞ。きっと中のお方は、お前さまの来訪を待ち焦がれているじゃろうからな」  支度部屋の鏡は、鈍色の風呂敷で隠されていた。さて、寝癖はいずこ……と布をめくった瞬間。  映し出された姿に、思わず息が止まりそうになった。 「命……!?」  命がいる。それとも、これが尊なのか……?  いや、何を言っているんだ。俺は尊だ――。  俺の方が命よりも体格は大きく、身長もある。ただ顔の作りがそっくりだった。これはあれだ、双子というやつに違いない。それも一卵性の。  やっぱり、命と俺は兄弟――。  膳を取りに行く間も惜しんで蔵へ向かうと、命は窓の外を見つめていた。 「あぁ、兄さまどうぞお入りください」  今日は格子の錠前が外れている。 「えっ……?」 「何を驚いておられるのですか? さぁ早く。錠は外しておきました」    そろり、と格子の戸に手をかける。草履を脱ぎ捨て、座敷に一歩踏み入れたその時。小枝のような腕が胸の前まで伸びてきた。 「命!?」    軽い。  胸の上に乗った命の重みが、子猫のように軽い。  十本の細い指が喉元に絡みつき、相変わらず俺を映そうとしない闇色の瞳がすうっと細まる。   「羨ましかった……私はここで、兄さまが野を駆け回る音を聞いて育ったのです。兄さまは豪胆で、気丈で、乱暴者だが思い遣りのあるお方だと、手伝い娘たちからうかがいました」  耳元を掠める恨み言は、命本人の重さよりもずっしりと胸にのしかかってきた。   「十二年。十二年です。兄さまが嫡男となり、私が『選出』されてから、十二年……兄さまは私のことなど忘れて暮らし、私はここで独りきり……」    命の温かい涙が、次々と頬を滑って落ちていく。  あまりにも弱々しい手が、俺の首を絞めようとして軋む。 「兄さま……?」  これ以上このままでいたら、命は――弟は壊れてしまう。  そんな気がして、濡れた顔を袖で拭ってやった。 「俺と一緒に行こう」
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