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本当に、尊――俺の体は丈夫にできている。
人ひとり背負って全力疾走しても、まだまだ走れそうだ。
「いけません兄さま! そろそろ戻られませんと、家の者が追ってきます!」
こんなに走ったのだ。もう誰も、俺たちがどこへ行ったのか分かるまい。
「大丈夫だよ。とりあえず、隣の村まで行こう」
「いけません」、と繰り返す命を言いくるめながら、薄暗い林を駆ける。
流石に息が切れてきた頃、小川の大岩に命を降ろした。かがんで水をすくおうとしたその時――。
「おっと!」
薄い板――スマホが胸元から滑り落ちてきた。
赤いゲージのバッテリーと共に、「18:46」と表示されている。
「充電しないと……」
「兄さま!」
命の金切り声に振り返った瞬間。
目の前が真っ暗になった。
「お戻りください、尊様」
背筋が震えるような、冷たく低い声だった。
今もその声の主に目を塞がれているというのに、まるで背後に気配がない。
その黒装束たちによって、命は元通り蔵へ。俺はばあやに背中を押されて自室へ戻された。
「もう二度とこのようなことが起こらないよう、尊さまには全てをお話しすることに致します。旦那様も、『そうするように』と仰せになりました」
はじまりは、当代の帝(確か昔の天皇だったか)が病に伏せたことから。
ばあやが語り出したのは、こんな小さな村には収まらないスケールの話だった。
「病は魔のモノの所為であると、朝廷の占いに出たのです。都近くの村にはこの矢継家を含め、社をもつお家がいくつかございます。その社には魔を防ぐ結界がはられているのですが、これは矢継家で奉る『お花さま』の力が弱っている所為だと……お花さまの結界が薄れ、魔のモノが帝に悪さをしているというのです」
ばあやの責め立てるような口調に、ドッドッと走る心音が加速していく。
「そこでお花さまの力を支える婿殿として選ばれたお方が、矢継家の次子……尊さまの弟君、命さまでした」
命は、その「お花さま」が力を取り戻すための供物にされたというのか。
「そんな、どうして命が!」
「命さまは生まれつき、盲なのでございます」
盲――?
目が、見えない――?
「でも、俺の写真を見て……」
否定しかけた口が閉じる。
命はずっと、「フリ」をしていたのだ。
一度も目が合わなかったのは、そういうことだったのか――。
その日の真夜中。
見張りのばあやがまどろんでいるのを確認し、床を抜け出した。
女中たちが寝ている大部屋へこっそり侵入し、その中から小柄な「のじゃ」少女を探す。探そうとしたのだが――。
「いない……」
今は彼女が命の食事番で、肌身離さず蔵の鍵を持っている。
ひとまず蔵の前まで来てみたが、錠前をノコギリで切っていたら夜が明けてしまいそうだ。
いっそ窓から命を呼ぶしか――。
「尊さま」
振り返った先にいたのは、花だった。
俺をずっと丁稚と勘違いしていたのに、今日の騒動でようやく事実を知ったのだろうか。
「これから命さまの元へ向かおうとしているのは……命さまを想っているのは、尊さまではなく、お前さまか?」
花の大きな瞳が、かすかに薄紅のベールをまとっている。
尊ではない、とは、いったい何を言っているのだろうか――?
ゾクリとするような視線に対し、顔は勝手に頷いていた。
「ならば行け。命さまは間もなく、理から外れてしまわれる」
鍵をこちらに投げると、花は母屋の方へ走り去ってしまった。
何やら普通ではない様子だったが、とにかく今は命だ。命に伝えなければ。
「……兄さま。もうお会いできないかと」
命は小さな窓に手をかけ、外を眺めていた。
次はもっとちゃんと計画を立てて、お前をここから出してやる。
そう伝えると、命は儚く微笑んだ。
「人は変わります。三つの時、兄さまは同じことを言い契りを交わしてくださいました……ですが、いつの日か私のことすら忘れてしまわれたようですが」
「今度は忘れない! 命を絶対ここから出してあげるから」
「……兄さま。『私はここにいるから不幸』なのではありません。すでにお気づきでしょうが、私の目は何も映さない。兄さまのお顔さえ、見ることが叶わないのです。故にどこにいようと同じ。ここでお役目を果たすことができるだけでも、生まれてきた甲斐があるというものです」
本当にそう思っているのだろうか――?
俺と再会した時、命は真っ先に外の世界について尋ねてきた。俺とまた会いたいと願ってくれた。
「分かった。命がここから出られないなら、俺がまた会いに来るよ。今度は忘れないから」
「口約束はもう結構……暗闇に生きる私にとって、希望の光は毒なのです」
どうすれば信じてくれるだろうか。
辺りを見回していると、急に胸元がぼうっと光った。
そうだ――。
「写真を撮ろう! 前に説明したよね? もし俺が忘れてても、こうすれば命のことをいつでも思い出せるから」
命は迷いつつも、格子の錠を開けてくれた。
バッテリーがもう3パーセントを切っていたが、何とか瓜二つの顔を並べて撮ることができた。
シャッター音の後、もうひとつポップな音が続く。
「ん?」
表示されたのは、メッセージアプリの通知だ。
『えーちゃん、今どこにいるの?』
えーちゃん――?
俺は……オレ、は――?
俺は尊――じゃない。
オレは瑛士だ――!
頭の霧が晴れた瞬間、全身の力が抜けていった。
「兄さま? 兄さま……」
命の――誰かの声が遠くなっていく。
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