1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

 本当に、尊――俺の体は丈夫にできている。  人ひとり背負って全力疾走しても、まだまだ走れそうだ。 「いけません兄さま! そろそろ戻られませんと、家の者が追ってきます!」  こんなに走ったのだ。もう誰も、俺たちがどこへ行ったのか分かるまい。 「大丈夫だよ。とりあえず、隣の村まで行こう」   「いけません」、と繰り返す命を言いくるめながら、薄暗い林を駆ける。  流石に息が切れてきた頃、小川の大岩に命を降ろした。かがんで水をすくおうとしたその時――。 「おっと!」    薄い板――スマホが胸元から滑り落ちてきた。  赤いゲージのバッテリーと共に、「18:46」と表示されている。   「充電しないと……」 「兄さま!」    命の金切り声に振り返った瞬間。  目の前が真っ暗になった。 「お戻りください、尊様」    背筋が震えるような、冷たく低い声だった。  今もその声の主に目を塞がれているというのに、まるで背後に気配がない。  その黒装束たちによって、命は元通り蔵へ。俺はばあやに背中を押されて自室へ戻された。 「もう二度とこのようなことが起こらないよう、尊さまには全てをお話しすることに致します。旦那様も、『そうするように』と仰せになりました」    はじまりは、当代の帝(確か昔の天皇だったか)が病に伏せたことから。  ばあやが語り出したのは、こんな小さな村には収まらないスケールの話だった。   「病は魔のモノの所為であると、朝廷の占いに出たのです。都近くの村にはこの矢継家を含め、社をもつお家がいくつかございます。その社には魔を防ぐ結界がはられているのですが、これは矢継家で奉る『お花さま』の力が弱っている所為だと……お花さまの結界が薄れ、魔のモノが帝に悪さをしているというのです」  ばあやの責め立てるような口調に、ドッドッと走る心音が加速していく。 「そこでお花さまの力を支える婿殿として選ばれたお方が、矢継家の次子……尊さまの弟君、命さまでした」  命は、その「お花さま」が力を取り戻すための供物にされたというのか。 「そんな、どうして命が!」 「命さまは生まれつき、盲なのでございます」  盲――?  目が、見えない――? 「でも、俺の写真を見て……」  否定しかけた口が閉じる。  命はずっと、「フリ」をしていたのだ。  一度も目が合わなかったのは、そういうことだったのか――。      その日の真夜中。  見張りのばあやがまどろんでいるのを確認し、床を抜け出した。  女中たちが寝ている大部屋へこっそり侵入し、その中から小柄な「のじゃ」少女を探す。探そうとしたのだが――。   「いない……」  今は彼女が命の食事番で、肌身離さず蔵の鍵を持っている。  ひとまず蔵の前まで来てみたが、錠前をノコギリで切っていたら夜が明けてしまいそうだ。  いっそ窓から命を呼ぶしか――。 「尊さま」  振り返った先にいたのは、花だった。  俺をずっと丁稚と勘違いしていたのに、今日の騒動でようやく事実を知ったのだろうか。 「これから命さまの元へ向かおうとしているのは……命さまを想っているのは、尊さまではなく、お前さまか?」  花の大きな瞳が、かすかに薄紅のベールをまとっている。  尊ではない、とは、いったい何を言っているのだろうか――?  ゾクリとするような視線に対し、顔は勝手に頷いていた。 「ならば行け。命さまは間もなく、(ことわり)から外れてしまわれる」  鍵をこちらに投げると、花は母屋の方へ走り去ってしまった。  何やら普通ではない様子だったが、とにかく今は命だ。命に伝えなければ。 「……兄さま。もうお会いできないかと」    命は小さな窓に手をかけ、外を眺めていた。  次はもっとちゃんと計画を立てて、お前をここから出してやる。  そう伝えると、命は儚く微笑んだ。 「人は変わります。三つの時、兄さまは同じことを言い契りを交わしてくださいました……ですが、いつの日か私のことすら忘れてしまわれたようですが」 「今度は忘れない! 命を絶対ここから出してあげるから」 「……兄さま。『私はここにいるから不幸』なのではありません。すでにお気づきでしょうが、私の目は何も映さない。兄さまのお顔さえ、見ることが叶わないのです。故にどこにいようと同じ。ここでお役目を果たすことができるだけでも、生まれてきた甲斐があるというものです」  本当にそう思っているのだろうか――?  俺と再会した時、命は真っ先に外の世界について尋ねてきた。俺とまた会いたいと願ってくれた。 「分かった。命がここから出られないなら、俺がまた会いに来るよ。今度は忘れないから」 「口約束はもう結構……暗闇に生きる私にとって、希望の光は毒なのです」  どうすれば信じてくれるだろうか。  辺りを見回していると、急に胸元がぼうっと光った。  そうだ――。   「写真を撮ろう! 前に説明したよね? もし俺が忘れてても、こうすれば命のことをいつでも思い出せるから」  命は迷いつつも、格子の錠を開けてくれた。  バッテリーがもう3パーセントを切っていたが、何とか瓜二つの顔を並べて撮ることができた。  シャッター音の後、もうひとつポップな音が続く。 「ん?」    表示されたのは、メッセージアプリの通知だ。   『えーちゃん、今どこにいるの?』    えーちゃん――?  俺は……オレ、は――?  俺は尊――じゃない。  オレは瑛士だ――!  頭の霧が晴れた瞬間、全身の力が抜けていった。 「兄さま? 兄さま……」  命の――誰かの声が遠くなっていく。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!