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序 クジャクヤママユ
――胸をどきどきさせながら、僕は紙切れを取りのけたい誘惑に負け、針を抜いた。すると、四つの大きな不思議な斑点が、挿絵のよりはずっと美しく、ずっと素晴らしく、僕を見つめた。
(高橋健二訳 ヘルマン=ヘッセ『少年の日の思い出』)
羽ばたきほどの小さな挙動が、私にはいちいち大事だった。
そんなこと、あちらは思いもよらないだろう。
「これ、なんて読むの?」
朗読の授業のさなか、いきなり訊ねてきた。隣の席のさえない子。話すのは初めてだった。本文下欄の注釈を指している。とまどいつつも、私は小声で読んでやる。ふん、とうなずいてその子は姿勢を戻した。発音を聞いて意味は聞かずに戻るのかと思っていたら、また聞いてきた。
「どういう意味?」
段落読みの最中で、まだ当分、順番は回ってこないだろう。私は綴りを指さし、Dasは定冠詞、Nachtは夜、pfauenは孔雀の、augeは目だと思うと答えた。どうもと言ってお隣さんは戻っていった。どうして私に聞いたのだろうと思った。
か細い声を繋いで、場面は進んでいく。少年は優等生エーミールの大事な標本を一目見ようと部屋に入った。
楓蚕蛾、山繭蛾、孔雀山繭。版により様々なその蝶の、本当の名前はDas Nachtpfauenauge。
標本箱のピンを抜き、薄い紙をはずした少年の前に現れたものは単なるガではない。黒い大きな瞳だ。四つのそれに吸い寄せられるめまい。
この教室で、私がそれを想像できたのは、本当の名前に触れていたからだ。あの子の何気ない質問が、「ヤママユガ」を覆う薄い膜をそっとつまみ上げたのだ。
しばらくして、その子に朗読の順番が回ってきた。
「――僕は彼に、僕のおもちゃをみんなやると言った。それでも彼は冷淡に構え……」
深い静かな声だった。私はききほれた。先生は次の生徒に回すのを忘れた。エーミールは嫌なやつだった。最後の一行まで彼女が読んだ。
「――そしてチョウチョをひとつ一つ取り出し、指でこなごなに押しつぶしてしまった」
小説が苦手な私には、なぜそんなことをするのかわからなかった。静かな声で、蝶はおしつぶされ、昏く光って落ちた。
静かで決して取り返しがつかない出来事が、少年の日を終わらせていく。おとなになっていくなかで、大なり小なりそんなことは起こる。お前の蝶も、いつか崩れて風になるのだ。そう言われた気がした。気が滅入る小説だった。
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