どんな時も、君のそばに

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 読経がどこか遠くで聞こえる。  正座した膝の上に置いた握り拳が、力を込め過ぎて震え、青筋が立っている。手のひらに食い込んだ爪が柔らかい皮膚を割くのを感じたが、力の緩め方が分からない。  周囲から上がる啜り泣きの声が遠ざかり、目の前の視界が霞む。息が詰まるほど苦しいのに、涙はただの一筋も溢れない。 「どんな時も、君のそばに」  情事の後、(れん)はそう言って誓いを立てるように俺の左手の薬指に口付けてくれた。たった数日前の出来事なのに、今は嘘のように遠い。  職場の同僚との恋愛関係なんて、ただでさえ公にしづらいことだが、それに輪をかけて漣は既婚者だった。同性愛者ということを周囲に隠しながら、親に言われてかたちばかりの結婚をして、偽りに塗り固められてはいたが、普通の幸せな人生を歩んでいくはずだった。  だが、俺と出会ってしまった。 「お前と先に出会っていたら、俺は結婚なんてしなかったのに」  そう言って苦笑しながら俺に愛を囁いてくれた漣はもういない。  恋愛感情でなくとも、妻に対して情が湧いたせいか離婚に踏み切れず、かといって俺と別れることもできずに、板挟みの状態が耐えきれなくなったのだろう。  漣は自ら死を選んだ。  その知らせを聞いてすぐに俺は後を追いかけようとしたが、漣の側に行きたくても行けなかった。側に行きたいのに、死ぬのが怖い。  あまりに情けない自分に呆れながらも、ただこうして二度と会えない君を思って悲しむことしかできない。 「どんな時も、君のそばに」  漣が告げた誓いの言葉が延々と反響し、苦しすぎて、涙を流したくても流せない。  今でも隣に君がいる。その錯覚は俺の願望だと分かっていながら、錯覚を求めて、きつく目を閉じる。  読経はいつの間にか止み、ただ周囲の人々の悲しむ空気が伸しかかる。  俺は永遠に明けない夏の夜の中、漣の幻に縋り、その場に蹲るしかなかった。
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