プロローグ

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プロローグ

 春が嫌いだ。  夏も嫌いだ、暑いから。  九月になっても夏は終わらない。暑い。空気が焼けてるみたいだ。足を動かすたびに汗が吹き出てきりがない。バッグからタオルを引っ張り出す。一緒に出て来た求職票を、再びバッグに押し込んだ。ぐしゃっと駄目な音がしたが気にしない。  足を止め、タオルを両手の上に広げると化粧が落ちないよう注意深く額を叩いた。その横を、自転車が砂を噛みながら涼しげに通り過ぎていく。  眞白(ましろ)。  嫌な記憶がフラッシュバックして口元を抑えた。この吐き気は、暑さのせいだ。記憶のせいじゃない。額にじわっと浮き上がった汗が目の端を滑って地面に落ちた。  眞白。私には眞白以外いらなかった。眞白さえいれば、不安なことも辛いことも無かった。今みたいな暑さも、かき氷を食べに行く口実になったのに。 「スーパー、行かなきゃ」  かすれた声を出して気持ちを切り替える。頭は考えることでいっぱいだ。まだ決まらない転職先のこと、口座の残金のこと、生きること。生きるのってどうすればいいか分からない。眞白と一緒にいた頃は、そんなの考えたことも無かった。ドラマとか漫画みたいに、ハッピーエンドの先の先までずっと進むだけだと信じていた。  汗が滑る。タオルに顔を埋めた。  平日の昼前、ハローワーク帰りにオフィスビルの影を歩いているのは私しかいない。反対側の歩道をちらっと見た。大通りに出る前に向こう側へ渡ってしまおう。体を向けると、まばらにしか通らない車がちょうど通るところだった。フロントガラスが陽光を照り返して目がチカチカする。一瞬眩んだ視界に、幻みたいに人影を見た。ドキッとして、踏み出しかけた足が止まった。  息も止めていた。見間違いか。見間違いに決まってる。汗がアスファルトに染み込むのをじっと見つめた。見間違いだと繰り返し自分に言い聞かせて、大きく息を吸った。  自分の心臓の音が大きく聞こえるくらいに静かだった。私は小走りで車道を渡った。そのまま一歩、二歩、進んで、止まる。日光がじりじり頭を焼いた。体の向きを変え、今歩いてきた道を、今度は日陰が無い方の道を、戻った。  足が急いた。よく似た雰囲気の別人、もしくは暑さが見せた幻かのどちらかだ。頭の中は冷静に判断している部分と、有り得ない期待を抱いている部分があった。お互いが押し合って、私の足をどんどん進ませる。  暑い。息が上がる。視界が白くて明るくて眩む。全身の穴から冷静さが汗になって出て行く。  後ろ姿を見つけた。幻じゃなかった。幻じゃないならなんなの。一体誰なの。  私はかろうじて残った理性で目の前の人の背中を追い越した。本当は抱き着きたいくせに、有り得ないと訴える頭がまだ残っていた。息が信じられないくらいに苦しい。心臓がドクドク脈打っているのが気持ち悪い。  夢ならいっそ、夢であって欲しい。前を向いたまま必死に息を吸って言った。 「眞白……?」  喉が詰まった。限界まで息を吐き切って、熱い空気を吸い込むと少し咳き込んだ。私が追い越した誰かが、私を追い越した。そしてゆっくり振り返り、自分の首の辺りを指差しながら言う。 「俺のこと、知ってるの?」  自転車が横を通り過ぎていく。時が止まった心地だった。見知った顔がそこにあった。  眞白がここにいるはずがない。有り得ない。でもこの顔は、どう見ても眞白だ。  思考が止まる。目の前の出来事が信じられない。眞白が、生きているはずがない。五年前に死んだのだ。
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