プロローグ

2/2
前へ
/57ページ
次へ
 私は自分の名前が嫌いだった。伊吹(いぶき)。命の伊吹、なんて気持ち悪い。手先が不器用だったのもあって、からかわれることも多かった。でも眞白に呼ばれる時だけは自分の名前が好きになれた。不細工の”ぶ”、不器用の”ぶ”、嫌な言葉に使われてばかりいる”ぶ”の濁音も、眞白の温かい吐息が混じると優しく聞こえた。いぶき、いぶき、こっちだよ。まだ舌ったらずな頃から、眞白は私の名前を綺麗に呼んでくれた。  家が近くて幼馴染だった私たちは、高校生になってから当たり前のように付き合い始めた。私は五年前のその日も、特に理由もなく眞白に電話をした。出ないことは珍しくなかった。  その日は午後から急に強い雨が降った。桜が散り始める暖かい時期の、春の雨だった。  眞白と最後にした会話は覚えていない。眞白は今まで一度も行ったことのない、辺鄙(へんぴ)な場所の水路に転落して亡くなった。自転車に乗っていたから急な大雨でタイヤが滑ったんじゃないか、そんな風な、事故だった。  眞白は方向音痴だった。よく迷子になった。私が知らない場所で死んでも、その理由を突き止めることなんて出来なかった。大雨、自転車、水路、迷子、眞白。全部が全部悪い方に滑って落ちただけの話だ。  私は幼い頃から何をするにも眞白と一緒だった。私には眞白さえいれば良かった。不安も心配もなかった。眞白がいたから。一緒に入学する予定だった大学も、眞白と同じところにしたかっただけで志望理由は後付けだった。  眞白が死んでから私はしばらく部屋に引きこもった。大学もほとんど行かないまま退学した。眞白がいないのに、行く理由がなかった。引きこもった私は毎日目をつぶって過ごして、毎日同じことを考えた。もしもこの世界に生きる人数が決まっているのなら、私の知らない誰かが眞白の代わりに死んでくれれば良かったのに。と。  何で眞白が死ななきゃいけなかったのか。私は世界だとか、(もろ)すぎる人の体だとか、命だとか、神様だとかを手当たり次第に恨んだ。そうでもしないと息をしていられなかった。  一年近く引きこもった後、高校生の時にバイトをして貯めた貯金で家を出た。眞白との結婚資金にするつもりで貯めていた金だった。そうやって無理にでも実家を出たのは、私たちが幼馴染だったからだ。互いの家なんて当たり前のように行き来していたから、実家のテーブル一つとっても語り切れないほど思い出があった。目に入る物全てに眞白の記憶が残っている。それは私にとって拷問のような痛みをもたらし続けた。耐えられなかった。  一人暮らしを始めて、ヤケクソみたいに決めた就職先で三年ほどヤケになって働いた。大して仲良くもない同僚の男に名前を(いじ)られて、ぷつっと糸が切れて辞めた。どうでもよかった。全部がどうでもよくて、全部が私に関係が無かった。  眞白がいない人生に何の意味があるのか分からなかった。全部全部早く消費して、早く終わらせたい。終わらない。私はまだ死なない。早く年を取りたい、早く死んでしまいたい。こんな人生に何の意味があるっていうの。
/57ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加