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午後六時三十分 病室前
花火大会、当日。僕は彼女に言われた通りに準備をして病室に向かった。
「お待たせ」
少し緊張しながら病室に入ると、気づいた彼女は僕を見て目を輝かせながらパァ~と効果音が出るような表情を僕に向けた。
「一希君、似合ってるよ!」
「……ありがとう」
彼女の要望どおりに、浴衣を着て彼女の前に現れた。
久しぶりの浴衣姿を人に見せるのは気恥ずかしものだけど、逆に彼女の姿を見た僕はもっと照れてしまった。
「……浴衣着せてもらったんだね」
「うん! 病院の貸し出しで着させてもらったんだー」
白地で淡い華やかな花柄の浴衣姿はとても美しく、喜ぶ彼女の絶えない笑顔に心奪われたからだ。
「じゃあ、早くいこ!」
「うん」
そう言うと僕の腕の裾をひっぱって、ウキウキしながら病室を出ると、殺風景だった病院の廊下は一変していた事に足が止まった。
小さい子供を連れた親子や家族総出で来ている人もいれば、僕達と同じ男女のカップルも浴衣姿であふれ、大勢の人が僕達と同じように屋上に向けて足を運びはじめていたからだ。
病室に行く途中、浴衣を来た人をチラホラ見かけていた事はわかってはいたけど、入院関係者だけのイベントでここまで人が集まるとは自分には想定の範囲外だった。
「結構、人が集まるんだね。ここは」
「うん……」
「……どうかしたの?」
さっきまで元気だった彼女は覇気がない返事をして、神妙な面持ちで掴んだままの裾を少し強く引っ張った。
慣れない人混みに圧倒されて気分が悪くなったのかと思い、彼女を気遣い一旦病室で休憩し、空いてきたら屋上に向かおうと、彼女に提案しようと声をかけようとした途端、彼女は僕の浴衣の裾を離して1人で人混みに向かって進み始めたのだ。
「ちょっと、どうしたの!」
僕の声など聞かず彼女は1人でどんどん先に進みはじめる。
「待って!」
これほど大勢の人がくる事を彼女も予測していなかったのか、少し焦っている事が僕は一瞬でわかった。
彼女の履いていた下駄靴がコツコツと早い音を鳴らしてどんどん進んでいくからだ。
「一希君!早く、早く!」
「わかったから、先に行かないで!」
手招きする彼女に追い付こうとすると彼女は僕を待たずに先に向かってしまう。そうとう、楽しみしていたのだろう。
一見、気持ち的には焦ってはいるような様子だが表情は穏やかで、特に彼女の瞳はとても輝いて見えた。後ろ姿はまるで無邪気な子供のようで、見てるこっちも思わず微笑んでしまうほどに。
だだ、彼女の下駄靴の音がさっきより速くなる事に、僕の胸中が少しだけざわつき始めた事を今の彼女は知らないのだろう。
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