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2.夏の中へ
灼熱のホームには、車輪の軋む音とお定まりのアナウンスだけが響いている。肌にまとわりつく熱気がただただ厭わしい。目を灼くような日差しから逃げるように、黒川は視線を下げたまま電車に乗り込んだ。
ラッシュを避けた時間、最後尾の車両。車内は決して混雑してはいないが、座席はすべて埋まっている。
黒川はドア横のスペースに身を預け、スマートフォンでニュースアプリを開く。画面には熱中症、熱帯夜、温暖化など、見るだけでうんざりするような文字ばかりが並んでいる。
電車が三度熱風を吸い込み終わったところで、黒川の肩に手が置かれた。手の主に視線を移して、その目に年若い恋人の顔が映ったところで、黒川は驚きのあまりスマートフォンを取り落としそうになった。
「おはようございます」
「え、ああ、おはよう、俊樹君」
あっけにとられた様子の黒川に、俊樹はいたずらっぽい笑みを向ける。茶色がかった髪と大きな瞳に、車窓から差し込む光が反射している。
「びっくりした。珍しく早いね、どうしたの」
俊樹と黒川は同じ会社に勤めているが、部署も違えば勤務形態も違う。研究開発部所属で裁量労働制の俊樹は、普段なら一時間ほど後の電車に乗っているはずだ。
「たまたま目が覚めたんです」
そう言い終わるのと同時に俊樹が大きな欠伸をするのを見て、黒川は破顔した。
「眠いならもう一回寝れば良いのに」
「昨日寝るの遅くなったから、二度寝したら寝坊すると思って」
「何やってたの? ゲーム?」
「そうです。チーム対戦だから抜けられなくて」
「へえ」
黒川も十代の頃は人並みにゲームもしたが、俊樹が言うそれとは何もかもが違う。
そんな他愛のない話をするうちに車窓の景色はめまぐるしく変わって、もう会社のビルが小さく見えている。
「そういえば、今日花火大会があるらしいですよ。知ってました?」
脈絡のない話題の転換に黒川は些か面食らった。
「いや、今初めて知った。花火なんて、最後に見たのいつだろう。毎年音だけは聞くけどなあ」
一緒に見に行きましょうよ、とは言わないのだろうことはわかっているから、せっかくの楽しげな単語もどこか空疎だ。
数秒間沈黙が続く。次の駅を知らせるアナウンスが流れる。あっという間に次が降車駅だ。
「僕の部屋、ベランダから花火が見えるんです」
その言葉が俊樹の部屋への誘いだと黒川が気づくのに、五秒ほどの時間が必要だった。
「それって――」
やっと出かかった黒川の言葉を、車掌の声がかき消した。
「待ってます」
そう小さく呟いて、一足先に俊樹がホームに降りる。黒川も慌てて追いかけたが、彼の小柄な後姿はスーツの群れに紛れてもう見えない。
黒川はホームの隅でしばし立ち尽くした。
おそらくこのためだけに、ただ自分を部屋に誘うためだけに、俊樹は眠気を押して一時間近くも早い電車に乗ったのだ。
口元の緩みを何とか抑えながら、黒川も人の流れに乗り改札を抜ける。駅舎を出たところで黒川は空を見上げた。抜けるような快晴だ。夜になれば、きっと花火の映える暗幕に様変わりするだろう。
街路樹の濃い緑、草に乗る水滴、往来の人々、立ち並ぶビル。そうしたなんでもない景色が力強い光に濃く縁取られて、透明度を増した空気の中で鮮やかにきらめいている。
黒川は夏の中に一歩足を踏み出した。
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