4.ハードモード

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4.ハードモード

 休日の昼下がり。ソファに座る恋人の膝に頭を乗せて古いドラマの再放送を見る至福の時。  エンディングがCMに切り替わったところで、ちょっとすみません、と声をかけて黒川の頭の下から足を抜き、俊樹が立ち上がった。  画面の中では、恋人たちが寄り添って仲睦まじく食事をしている。  次々に切り替わる親しげな雰囲気のカップルたちをぼんやりと眺めたまま、黒川は部屋に戻ってきて座り直した俊樹の膝に頭を戻す。 「やっぱり固い」  黒川がそう言うと、俊樹がむっとした顔で黒川を見下ろした。 「そんなの仕方ないでしょ。不満があるならクッションか何か使ってください」 「えっ、何の話」  黒川は身に覚えのない非難に狼狽えて、俊樹を見上げた。一瞬目が合って、すぐに俊樹が視線を逸らす。 「僕の脚が固くて不快だって話でしょ」 「違う違う、僕が固いって言ったのは俊樹君の言葉遣いのこと」 「言葉遣い? 別にそんなことないと思いますけど」  俊樹はそう言って首を傾げる。どうやら認識のすり合わせが必要らしい。黒川はがばりと勢い良く身を起こした。 「ほら、今だってそう。年上って言ったって恋人なんだから、敬語なんて使わなくて良いだろ」 「そんな事急に言われても」  俊樹の顔には困惑の色が浮かんでいる。 「呼び方だってそうだよ。もういい加減ファーストネームで呼んでくれても良いんじゃないの」  黒川がそう言うと、俊樹はうっすらと頬を赤く染めて視線を逸らした。初々しい様子は可愛いが、それで誤魔化されるわけにはいかない。 「もし会社でそう呼んでしまったらどうするんですか。言葉遣いだって……」 「会社で僕と話すことなんてほとんど無いんだから、心配いらないよ」 「今はそうですけど、年次が上がったらどうなるかわからないじゃないですか。それこそ異動だってあるかも」 「そうなったらその時考えれば良いだろ」 「それはそうかもしれないですけど……」  まだ決心がつかないらしい俊樹は、大きな茶色の目を伏せる。部屋には、バラエティ番組の笑い声だけが空疎に響いている。  黒川は自分の要求が至極当然のものだと思っていたし、何故俊樹がこんなに躊躇っているのかわからなかった。しかしその一方で、無理強いすることに意味がないのも承知していた。  結局黒川が折れることにして、俊樹の柔らかな髪を撫でる。 「まあでも、まだ難しいならいいよ。またそのうちね」  落胆を見せないように注意したつもりだったが、それでも何かを感じ取ったらしい俊樹がはっとしたように顔をあげた。  もう一度髪を撫でて、黒川が立ち上がろうと背を向けた瞬間、俊樹の手が黒川の胴に回った。そして、背中に俊樹の顔が押し付けられる感触が続く。そのまま数秒間、またテレビからの音だけが二人の上を通り過ぎる。黒川はテレビの電源を切った。 「……彬之≪あきのぶ≫さん」  その瞬間、まるでテレビの音に紛れこませようとするかのごとき細い声が聞こえて、黒川の頬が緩む。自分よりも一回り小さい手をほどいて、黒川は俊樹の方に向き直った。俊樹の顔は先程よりもさらに赤くなっている。黒川は両手で俊樹の顔を挟んで、自分の方を向かせる。 「もう一回呼んで」  俊樹は最後の抵抗として、視線を斜め下に落とした。 「彬之、さん」  聞き慣れた単語が、俊樹の口から発せられたというだけで、まるで違う言葉のように聞こえる。  黒川はその唇にキスをして、俊樹の体を抱き寄せた。  部屋には温かな静寂だけが満ちている。
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