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5.楽園の果実
黒川の部屋に一回り以上年下の恋人、俊樹がやってくるのはいつも金曜日の夜だ。
俊樹が所属する研究開発部では金曜日は早めに退勤する社員が多数派だという。間に休みを挟むとなると大掛かりな実験や時間のかかる検討を実施するのは難しいから、理に適ったワークスタイルだと言えるだろう。
そういうわけだから、金曜の夜は黒川が部屋に帰るとすっかりくつろいだ様子の俊樹が出向かえるのが常である。
いつも長引く会議が今日は珍しく早く終わって、黒川は定時で帰途についた。折角早く帰れたのだから、駅で待ち合わせて外食なんてどうだろうか。そう思いながら会社の最寄り駅へと急ぐ。ホームに着いたところで丁度滑り込んできた電車に乗り込み、スマートフォンのロックを解除しようとして、そこに表示された俊樹からのメッセージに小さくため息をついた。
『すみません、今日は同僚と飲んで帰ります』
いつもなら嬉しいはずのアイコンを、これほど残念な気持ちで見たのは初めてだった。
しかしそんな気持ちはどこにも滲ませないようにして、「楽しんできてね」とだけ返す。
考えてみれば、逆の立場で黒川がメッセージを送るのはままあることだ。俊樹もいつもこんな気持ちでいてくれるのだろうか、なんて想像するのは年寄りの思い上がりかもなと黒川は自嘲の笑みを漏らした。
仕事の間に溜まった通知に目を通していると、すぐに電車は自宅の最寄り駅に着いている。
一人で店に入る気も起きず、帰り道のコンビニで弁当とビールを買う。
もうすっかり秋が深まって、コートの裾を揺らす風には冬の気配が混じり始めている。数時間もすれば可愛い恋人に会えるというのに、なぜだかひどく寂しい気持ちで、黒川はマンションへの道を俯き加減でとぼとぼと歩いた。
侘しい食事と入浴を終えてたっぷり三時間ほども経った頃、玄関のロックが開くかちゃりという音で黒川ははっと顔を上げた。
「おかえり」
廊下に出て、待ちに待った恋人を出迎える。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
申し訳なさそうにそう言った俊樹は、少し息が上がっている。
「良いよそんなの。いつも僕の方が待たせてるんだから」
黒川はそう言って、俊樹の頬を指の背で撫でた。
俊樹がくすぐったそうに片目をつむる。
「外寒かった? 頬っぺたが真っ赤になってる」
まだどこか少年らしい幼気さを残すその面差しに、素朴な赤みが良く似合っていた。
「そこまで寒いってわけじゃなかったけど、結構風は冷たかったです」
「早くお風呂に入っておいで」
黒川はその赤い頬にキスをする。
「本当に林檎みたいだね。誘惑の象徴だ」
「何ですかそれ」
俊樹が不思議そうに首を傾げた。
「楽園追放だよ。知ってるだろ、アダムとイブ」
たまには出迎える側も良いものだなと、その赤く染まった唇に口づけを落とした。
(2022/11/5 創作BL版深夜の60分一本勝負(@BL_60minutes)参加作品。お題は「林檎」「頬」。)
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