6.事務仕事

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6.事務仕事

 普段より三十分早く俊樹が出社すると、広い居室の中でチームリーダーの井原だけがパソコンに向かっている。いつも穏やかな彼の顔には、いつになく険しい表情が浮かんでいた。  俊樹が所属する研究開発部では、次年度予算獲得に向けた「事務仕事」が近頃濃い影を落としていて、俊樹たち平社員の役目は一週間ほど前にどうにか一段落ついたという状況だった。つまるところ、井原にとっては今が正念場と言うわけである。 「おはようございます」  俊樹が挨拶すると井原が疲れの見える顔をゆっくりと上げた。 「あ、おはよう。ちょうど良かった」  そう言うと井原は俊樹に手招きした。俊樹は自席に鞄を置くと彼のデスクに向かう。 「何かありました?」 「うーんまあ、ちょっとね……」  井原はそう言って背もたれを軋ませると、次の言葉を探すように腕を組んで目を閉じた。  俊樹はその様子を見て、彼の言いたいことを何となく察した。  ――ああ、駄目だったんだな。  今回、俊樹たちのチームと隣のチームとの間で、予算枠を巡って静かな争いが起きていた。  隣のチームのリーダーである根岸はプレゼンの上手い男だ。  朴訥とさえ言えるほどに実直で、些か口下手な井原が劣勢なのは誰の目から見ても明らかだった。  しかし、こと研究となると抜群のセンスと技術力を発揮し、こうして管理職になった今でも重要な実験には必ず参加して誰よりも上手く実験機材を扱うこの上司を、俊樹は心から尊敬していた。  正直なところ、今回予算が取れずに新しい実験機器が買えなかったとしても、研究は井原のアイデアできっと何とかなるだろうという信頼と楽観が共有されていて、負け戦を前にしてもチームに悲壮感は無かった。  井原は何かを決心したように勢いよく身を起こすと、ちらりとパソコンの画面に目をやってから、俊樹に向き直った。 「研企の黒川さんからメールが来てさ」  俊樹はそこで黒川の名前が出てきたことに驚いた。それは別に彼が俊樹の恋人だからということではない。黒川のいる研究企画運営部は、研究開発の予算計画やら日々の決算やら何やらを扱う部署だから、当然今回の予算分配について井原とやりとりをしていることは知っている。しかし、予算計画案を却下するのは黒川の仕事ではないはずだ。 「来年度の研究計画について、研企部長の前で各チームがプレゼンする場を設けるって言ってるんだ。それで、発表は実際に手を動かしてる若手にやらせろって。まあだから、うちのチームだったら相良君だよね」 「えっ、それで予算が決まるんですか? 責任重大過ぎません?」  俊樹は突然降ってきた大仕事に目を見開いた。 「あ、いやいや、もちろん、そのプレゼンで何かが決まるってわけじゃないんだよ。なんて言うかさ、研企はほとんどが事務畑の人でしょ? だから計画案の書類だけじゃ理解してない部分も多いと思うって黒川さんは言ってくれてて。それでまあ、若手社員の育成も兼ねて、今回こういう発表会を用意してくれたんだと思うんだよね。まあそういうわけだから、別にそんなプレッシャー感じなくて大丈夫だよ。いつもの学会発表と同じような気持ちで良いから。こっちもサポートするし」  そう言う井原の顔には、どこか嬉しそうな表情が浮かんでいる。 「なるほど……。そうは言っても緊張しますけど、頑張ります」  真面目な顔で言った俊樹を見て、井原は楽し気な笑みで頷いた。  井原がモニターに視線を戻したタイミングで俊樹が自席に戻ろうとすると、井原が呟くように話し出した。 「ありがたいよね。こんな風にさ、こっちのことちゃんと知ろうとしてくれて。黒川さんはいつも、僕の下手な書類もしっかり読んでくれてて、結構鋭い質問が飛んできたりしてさ。痛いとこ突かれたな、なんて思ったりするんだけど、でもそれってすごいことだよね」  俊樹は足を止めて、再び井原のデスクを向く。 「まあ今回のことはさ、僕が不甲斐ないせいで仕事増やしちゃって申し訳ないと思ってるんだけど、良い機会だと思うから頑張ってね。相良君は僕なんかよりずっとプレゼン上手いから、期待してるよ」 「はい。ありがとうございます」  俊樹はそう語る井原の晴れやかな顔を、どこか誇らしい気持ちで見た。  外の廊下から近づいてくる足音で、俊樹はソファから身を起こした。玄関のロックが外れるよりも前に、俊樹はその前に立っている。 「おかえりなさい」  ドアを開けて入ってきた黒川は、俊樹の顔を見て穏やかな微笑を浮かべた。 「ただいま。今日は結構暖かいね。コート要らなかったかも」  そう言って玄関に上がると、黒川は俊樹の額に軽い触れるようなキスを落とす。  俊樹は一瞬の逡巡の後、そのまま廊下を進む黒川の背に抱き着いた。黒川が驚いて一瞬身を固くするのがわかる。 「どうしたの? 熱烈歓迎だね」  おそらく俊樹の行動の理由におおよそ見当がついているのだろう黒川は、揶揄うような口調で言いながら俊樹の手に自分の手を重ねる。 「ありがとう、彬之さん」  黒川がプライベートを仕事に持ち込まないことはよく知っている。今回のことも、別に俊樹のチームだから手を貸してやろうと考えたのではないだろう。  それでも、尊敬する上司を恋人が認めていること、その上司が恋人を褒めたこと、そしてその二人が自分を信じてチャンスをくれたことが、俊樹は何より嬉しかった。  黒川は小さな笑い声を漏らすと、何も言わずに俊樹の手を取ってキスをした。 (2022/11/6 Twitter企画 #ルクイユ秋のイケオジBL祭 参加作品)
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