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7.甘くて飲めない
リモート会議を終えて会議室から出た藤本は、がらんとしたオフィスで大きく伸びをした。時計は十二時十五分を指している。同僚たちは皆いつも通り近所の店に行ったのだろう。
今日は社食で済ますしかないようだ。メニューも少なく味もいまいちだというのに、少しでも出遅れると長い列に並ぶ羽目になる。藤本は一つため息をつくと、重い足取りで食堂に向かった。
予想通りの長蛇の列に肩を落としたところで、その最後尾に並ぶ男の顔に見覚えがあることに気づいた。
「あれ、相良さんじゃないですか。お疲れ様です」
相良は藤本の声に顔を上げた。その顔には驚きの表情が浮かんでいる。藤本はその段になって、彼が自分を認知していない可能性があることに思い至った。相良と藤本は同期入社だが、部署も違えば職種も違う。そうなると属するコミュニティが違うわけで、仕事でもプライベートでも接点はほぼ無いに等しい。
「ああ、藤本君か。お疲れ。社食で会うの珍しいよね」
「そうですね。大体は部署の人と外に食べに行くんで。相良さんはいつも社食なんですか?」
相良の視線はメニュー表に向いている。悪い意味で悩ましいラインナップだ。
「大体はそうかな。いつもはチームメンバーと一緒だけどね。今日は実験が長引いたから」
「俺も今日はミーティングが四十五分延びたんで」
「ははは、それはすごいね。お疲れ様」
修士卒の相良は藤本より二歳年上のはずだが、童顔のせいかあるいはどこか浮世離れした雰囲気のせいか、こうして笑うと年下に見える。
他愛のない話をしているうちに列は進んで、二人は何とか長机の端に向かい合って座った。
いただきますと手を合わせて食事を始めると、相良は何も話さなくなる。どうやら彼はこうして向かい合っている間沈黙が続いても気にならないようだが、藤本の方は何とか話題を探そうと脳をフル回転させていた。
「あ、そう言えば、高橋さんって憶えてます?」
相良は箸を止めると、首を傾げて考えるような仕草をする。
「去年の研修で先輩社員からのアドバイス的な話してた人?」
「そうですその人。俺の友達がその高橋さんと一緒の部署なんですけど、来月同じ部署の人と結婚するらしくて」
友人も同期だが、名前を出せばまた首を傾げさせることになるだろうと藤本は予想した。
「へえ。おめでたいね」
「その奥さん、まだ彼女さんですけど、っていうのがめちゃくちゃ美人らしくて。俺の友達も密かに憧れてたっぽくてすごいショック受けてるんですよ」
「それは残念だったね」
相良はそう言って少し笑った。特に話を広げようともしないが、ゴシップを聞きたくないという風ではない。
「でも、社内恋愛、それも同じ部署でってすごいですよね。俺は絶対無理だな。すぐばれちゃいそうだし、何かあったら気まずいですもんね」
相良は一瞬動きを止めたが、藤本がそれに気づくことはなかった。
昼食からオフィスに戻ると、黒川は藤本の机に目をやった。リモート会議に使っていた端末が置かれているところを見ると、無事ミーティングを終えて食事にありついたらしい。
コーヒーでも買いに行くか、と思い立って売店のあるフロアに降りると、食堂の方から歩いてくる恋人の姿が見えた。
俊樹君、と声をかけようとした時、俊樹が今曲がってきた角から藤本が顔を出した。
「あ、黒川課長、お疲れ様です」
「お疲れ。ごめんね、ミーティングで大変そうだったのに放っていっちゃって」
「ああいえいえ、お気遣いなく」
藤本はちょっとはにかむと、その長身を少しだけ折り曲げた。
「じゃあ僕はこれで」
俊樹はそう言うと、黒川に向けて会釈した。黒川はその余所余所しさに衝撃を受け、さらにその衝撃を受けている自分自身に驚きながら、ああはい、お疲れ様、という意味のない言葉を機械的に口に出していた。
「お疲れ様です。実験頑張ってください」
「ありがとう。じゃあね」
俊樹はそう言って藤本に手を振る。
「さっきの人が相良さんですよ」
「え?」
売店に入ろうとした黒川を、藤本が呼び止めた。
「ほら、この前ハロウィンの話の時に名前を出したじゃないですか」
「ああ、そう言えばそんなこともあったね」
黒川の反応が薄いことに不安を感じたのか、藤本はそれ以上のことは何も言わずにエレベーターに向かう。
後ろ暗いところなど何もないはずの俊樹との関係を、こんな風に隠さなければいけないのは「社内恋愛だから」だ。半ば自分にそう思い込ませるように、心の中で念を押す。
誰よりも近くて遠い彼のことを想いながら、黒川は俊樹がいつも飲んでいる甘いコーヒーを手に取った。
(2022/11/18 創作BL版深夜の60分一本勝負(@BL_60minutes)参加作品。お題は「上司」「先輩」。
なお、ハロウィンの話については、https://estar.jp/novels/26034404を参照のこと。)
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