第1話 妖精になれる薬

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第1話 妖精になれる薬

 彼は、夢を見ていた。  煌めく満天の星々、時折走る一筋の光。月はなく、暗闇の森の中を、一人で歩いている。梟の子守歌を道標に進むと、開けた場所に出た。  湖だ。波一つない水面が、鏡のように夜空を映している。  遠くに、微かな青白い光が見えた。白鳥だ。物音一つしない世界で、優美に泳ぐ姿につい見入ってしまう。  すると、淡い光がそれを覆って、輪郭がぼやけてきた。彼は、目を凝らして見つめようとする。  白鳥は、少女の姿になった。純白のワンピースを着た、銀の髪にサファイアの瞳の美しい娘が、湖面で嘆き悲しんでいる。  夢の中では、水の上を歩けるらしい。気づけば彼は、彼女のもとへ駆け寄っていた。  それに気づくと、彼女は顔を上げた。彼が手を差し出すと、そっと触れてから、ゆっくりと立ち上がる。  彼女が唇を開き、何かを呟こうとした瞬間――聞きなれたアラーム音によって、彼は覚醒してしまったのだった。スマートフォンの画面に触れ、音を止めてからゆっくりと起き上がる。 「……夢、か」  彼の名は真田(さなだ)良介(りょうすけ)。文武両道を掲げる名門・私立鳳凰学園高校に入学してから、二年目の夏休みを迎えていた。眩い朝日に透けるカーテンの向こうでは、既に蝉が大声で鳴き始めている。  世界的ヴァイオリニストである母は頻繁に海外遠征をしているため、滅多に会えない。外交官の父は単身赴任中で、今はベルリンに滞在中。よって、彼は今、一人では広過ぎるマンションの一室で孤独な毎日を過ごしている。 母の影響で幼い頃からバイオリンを習っている良介は、現在オーケストラ部に所属して演奏活動に励んでいる。だがその日、彼は部活動が休みであるにも関わらず、朝食を食べ終えた後、制服である白い半袖のワイシャツに腕を通し、金色(こんじき)の鳳凰のエンブレムの縫われたバッグを肩に掛けた。何故なら今日、鳳凰学園高校生徒会執行部の副会長として、その任務を全うしなければならないからである。  誰もいない自宅を後にして、彼は最寄り駅へ向かって歩き始めた。オーケストラで練習中の交響曲を聞きながら住宅地を歩いていると、突然汗ばんだ背中を強く叩かれる。 「おーっす、良介! 今日もシケた面してんなぁ!!」  眉間に皺を寄せ、彼はイヤホンを外して睨みつけた。 「見てもいないのによくわかるな、隼人」 「ったりめーだろ! 何年の付き合いだと思ってんだよ」  長く伸ばした金の髪を項で束ねている彼・霧崎(きりさき)隼人(はやと)は、良介の幼馴染である。彼らが出会ったのは幼稚園の頃で、母親同士仲が良かったこともありよく互いの家を訪ね合っていた。そんな彼もまた、庶務として生徒会執行部の活動に携わっている。彼の瞳が今日のようなよく晴れた空の色をしているのは、彼の父がドイツ出身だからだ。  通勤ラッシュがまだ和らいでいない時間帯。その雑踏の中、ホームには友人の姿がもう一人。英単語帳を閉じ、切れ長の目を彼らに向ける。 「あら、会長に霧崎じゃない。相変わらず仲いいわね」  艶やかな黒の長いポニーテールが印象的な彼女・梅宮(うめみや)昌子(しょうこ)は、彼らと同じ中学を卒業した同級生だ。学校指定の紅色のネクタイ、そして濃いグレーの生地に紺・深緑・黄・白のタータンチェック柄のスカートをその身に纏っている。  良介のことを会長と呼んでいるのは、かつて彼が中学校で生徒会長を務めていたからだ。彼女も現在生徒会執行部に会計として所属しているが、その活動中も現在の生徒会長を差し置いて良介のことを会長と呼んでしまっているため、初めはよく先輩たちを混乱させてしまったものだ。 「結局、最後まで直らなかったな。その癖」 「いいでしょ、どうせまた会長になるんだから」  腕を組み、呆れたように溜め息を吐きながら彼女は言った。  夏休みが明ければ、現在の生徒会役員はすぐに任期満了を迎え、役員選挙が始まる。他にも生徒会長に立候補する生徒はいるかもしれないが、副会長という経歴があること、内申とテストの順位が常に学年首位であること、加えてその恵まれた容姿によって選ばれるのは当然だろうと言いたいのかもしれない。 「なぁ、梅宮。お前も続けんのか、生徒会」 「ええ。やっておけば推薦で有利になるし、就職活動の自己PRにも使えるでしょうからね」 「凄ぇな、もうそんな先のことまで考えてんのかよ」  横浜港を臨む丘の上にある鳳凰学園高校は、明治時代にその前身が創られているため歴史が長い。そして卒業生の多くが優秀な大学へ進学し、また大企業でも実績を収めていることから、履歴書にその名を書けるだけでも高い評価が得られることは間違いない。その上生徒会執行部役員を務めていたともなれば、推薦入試で合格できる大学は実際数多く存在する。  また、アートやスポーツなど、様々な業界で活躍してきたプロを部活動の講師として雇っているので、将来の夢のために自らの技を磨きたい者や、いわゆる自分探しをしたいという者にも人気が高い学校である。  やがて電車が定刻通りにやって来て、彼らは冷房の効いた涼しい車両に乗り込んだ。席に座って項垂れ眠るサラリーマンやOL、スマートフォンに夢中な大学生らしき若者、これから野球の試合に向かう中学生たち――車内を一通り見てはみたものの、やはり空いている座席はなかった。 「そういえば、今日ちょっとイヤな夢見たのよね。内容はよく覚えてないんだけど」  手摺りに掴まり、左右に揺られながら、昌子は呟くように言った。 「んだよそれ。内容覚えてねぇのに嫌な夢だったっての?」 「何よ、アンタはそういうことないわけ? よく覚えてないけど、イヤな感覚だけ残ってるみたいな……会長は?」  視線を隼人から良介に移し、尋ねる昌子。くっきりとした二重に長い睫毛、大きな黒い瞳――化粧をする必要がなさそうなほど凛とした彼女の目に捉えられてから、良介はようやく今朝見た夢のことを思い出した。 「俺は……夜の森の中の湖で、白鳥が人間になる夢を見たな」 「へぇ、何だか白鳥の湖みたいね」 「さすが、ヴァイオリニストの卵だな」  隼人がそう言ったのは、西洋のお伽話である『白鳥の湖』が、クラシック・バレエの演目としても有名だからである。良介は、車窓の風景を眺めながら続けた。 「我ながら不思議な夢だったな。白鳥が白いワンピースを着た少女になって、湖の上で泣いていたんだ。俺に何かを言いかけたところで、目が覚めてしまったんだが」 「何だか、えらく具体的ね。もしかして予知夢だったりして」 「つーか、何言い所で目ぇ覚ましてんだよ! こっちまで続きが気になっちまうじゃねーか」  仕方ないだろう、と隼人に言い返したところで、電車は彼らの乗り換え駅に到着した。周囲と歩調を合わせて、彼らはいつも通りに階段を上る。 「ところで、今日の講演のテーマって何だったかしら」 「アレだよアレ、麻薬ダメ絶対! ってヤツ」  昌子が隣にいた隼人に問うと、彼は得意気に答えた。その日の生徒会役員の仕事は、講演会の講師の案内や運営である。 「ああ、そうだったわね。それにしても、わざわざ夏休み中にやらなくていいと思わない?」  それな、と隼人が相槌を打つと、普段は寡黙な良介が珍しく自ら口を開いた。 「夏休み中だからこそ、じゃないか。調子に乗って遊び回っていると、タガが外れやすいからな」 「あー……それもそうだな。なんか、巷で新種のクスリが流行ってるみてーだし」  改札でICカードを翳しながら隼人が言うと、何それ、と昌子が先を促す。 「聞いたことねぇ? 『ウィリ』っていう名前の、飲んだらすぐ痩せるとか、妖精みてぇに美しい体が手に入るとかいう宣伝文句の麻薬だよ。なんか、ラベンダーに似た匂いがするらしいぜ」  ウィリとは、古くから西洋で語り継がれている、美しい女性の精霊のことである。クラシック・バレエの演目『ジゼル』では、結婚しないままこの世を去った女たちの亡霊のことを指す。  国内ではまだ報告されていないが、海外――特に欧米ではその被害が深刻化しているそうだ。実際痩せる効果はあるらしいのだが、それは副作用として拒食症を引き起こすからである。その麻薬を口にしたが最後、脂肪どころか筋肉まで削ぎ落とされ、精力も少しずつ奪われていく。当然依存性もあり、その悪循環からは決して逃れられない。幻覚、妄想、鬱病、犯罪――これだけでも相当なものだが、既に先日フランスで死亡事件が発生してしまっている。  ラムネ菓子のような、白い錠剤になっている悪魔の一粒。それは今日もどこかで女心を弄び、欺き続けている。日本国内に持ち込まれてしまうのも、時間の問題だろう。 *  講演会の後のレッスンを終え、良介は一人、バイオリンケースを背負いながら帰路を辿っていた。虫の歌声が秋の気配を感じさせるものの、お盆を過ぎたばかりの夏の夜の風はまだまだ湿気ている。  空を見上げると、そこには半月が浮かんでいた。星は都会の光に掻き消され、ほとんど見えない。今朝の夢とは正反対だったが、彼はふと白鳥から変身した少女のことを思い出していた。 「おい、いいから来いって!!」 「やめてくださいっ、放して! 誰かーっ!!」  その時、どこからか下劣な男の声と少女の悲鳴が聞こえた。噴水のある児童公園の方からだ。  足早に近づくと、ストリートファッションに身を包んだ男たちが少女の腕を掴み、攫おうとしていた。すぐさまスマートフォンを取り出し男たちの前で叫ぶ良介。 「その子の手を放せ、放さなければ警察を呼ぶぞ!!」  男たちは、110と押されたその画面を見るなり、怯んですぐに立ち去った。解放された少女は尻もちをつき、息を荒げてその身を震わせている。 「大丈夫です、か……!?」  彼女に手を差し伸べた瞬間、良介は愕然とした。目の前にいたその少女の顔が、髪と瞳の色が、夢で見た少女と瓜二つだったからだ。 「……ええ、大丈夫です。ありがとう、助けてくれて」  細く白い腕を伸ばし、良介の手を取って、彼女はそう言いながら立ち上がった。その指先は、何故か土で汚れていた。 「どうしたんですか、その指」 「ああ、これは……落とし物を探している時に、ちょっと」 「そうですか……」 「ねぇ。あなた、ヴァイオリンを弾くの?」  小首を傾げ、嬉しそうに微笑む。 「ええ、まぁ……」 「素敵。私、バレエをやっているの。お礼になんかならないかもしれないけれど、良かったら踊りますので、何か弾いてください。好きな曲を」  突然の提案に戸惑ったが断る理由もなかったので、良介はバイオリンケースをベンチの上に置き、愛器を取り出した。 「本当に、何でもいいんですか」 「ええ。即興は、いい練習になるから」 「では……」  ヴァイオリンを構え、音程を確認してから、良介が奏で始めたのはヨハン・セバスチャン・バッハの『G線上のアリア』だった。それを選んだのは、誰もが知っていて、ゆったりとしたテンポの曲であれば躍りやすいのではないかと考えてのことだ。  すると、爪先立ちをした彼女は噴水と夜空の半月を背景に、高く跳んだ。ふわりと舞い上がるスカートは、まるで湖面から飛び立とうとする白鳥の翼のようだった。  その後も、彼女は踊り続けた。腕を天に向かって伸ばしたり、屈んだり、回ったりしながら、彼女は全身で踊ることの喜びを表しているかのようだった。  良介が弓を止めると、彼女もポーズを決めて踊り終えた。良介は、バイオリンを置いてすぐ、彼女に拍手を送った。 「ありがとう。あなたの演奏も、とっても良かった」  額の汗を指で拭って、彼女も良介に賛辞を返す。 「凄いですね。ずっとつま先立ちなのに、そんなに踊れるなんて」 「ええ。これはね、トゥシューズっていうバレエ用の靴なんですけど、最初は豆だらけになっちゃって、とっても辛かった。でも、やっぱり爪先立ちの方がきれいだから、一生懸命練習して慣らしたの」  足元を指さして、彼女は言った。爪先の部分には、何かが詰めてあるようだ。 「ところで、あなたはプロを目指しているの?」 「……俺は、趣味でやってるだけです。父に反対されているので」 「そうなの? とっても上手なのに」 「いいんです、やらせてもらえているだけで。……あなたは、プロになりたいんですか」 「ええ。将来は、バレリーナになりたいと思ってます」  口角を上げて、嬉しそうに答える。既に熟練の技を見せつけられたが、よく見ると、歳はさほど変わらないのではないかと彼は思った。 「ところで、何故夜にこんなところにいたんですか? 一人でいると、さっきのように襲われるとは思わなかったんですか」  つい責めるような口調で言ってしまい、しまったと良介は思ったが、遅かった。先ほどの笑顔は消えて、彼女は視線を落とし、悲しげに唇を動かす。 「ごめんなさい。夜も練習しないと、落ち着けなくて……」 「とにかく、もう一人で夜の公園に来るのは止めてください。危ないですから」 「ええ。……でも私、またあなたに会いたいな。夜、この公園でお話しない?」 「なっ……!?」  予想外の発言に、たじろぐ良介。体温が上がって、顔が赤くなる。  そんな彼の返事を待たずに、彼女は続けた。 「私は百合川(ゆりかわ)薫(かおる)、十七歳です。あなたは?」 「俺は……真田良介、来月十七になります」 「あ、じゃあ同い年なんだ! 嬉しい、もう敬語じゃなくていいよ。よろしくね、良介くん」 *  それから、夏の夜の二人の逢瀬が始まった。  ベンチに腰掛け、噴水と月を眺めながら話していくうちに、良介は薫のことを少しずつ知っていった。彼女は、つい先日までパリで暮らしていた帰国子女だった。父は日本人で、母はウクライナ人らしい。 「パリにいる間、私は有名なバレエ学校に通っていたんだけどね、おばあちゃんが体調を崩しちゃって……それで先月、私とお母さんだけ先に帰国したの。それからすぐ近所の、二階堂バレエカンパニーっていう教室に通い始めたんだけど、まだ馴染めなくて……だから、嬉しい。あなたとお友達になれて」  ふふ、と顔を綻ばせて、彼女は傍らの良介を見た。羞恥故か、彼は頬を赤らめて反射的に目を逸らしてしまう。彼らと噴水の雫を照らす公園の灯りには、小さな虫が飛び交っていた。 「そうか……だが、残念だったな」 「え、どうして?」 「プロを目指すなら、本場の方が良かっただろう。日本だと、遅れを取るんじゃないのか」 「それは……」  言い淀んだ彼女は、両手の指同士を絡ませ、ぎゅ、と強く握った。 「しょうがないよ。だって、おばあちゃんは一人暮らしだから、私たちが傍にいてあげなくちゃ。それに、日本のバレエだってレベル高いんだよ? 最近ではローザンヌ国際バレエコンクールにだってよく日本人が出場して、しかも賞を取るんだから!」 「……そうか」 「あ、ローザンヌっていうのはスイスの都市なんだけどね、そこで開催されるバレエコンクールで賞を取ったら欧米のバレエ学校から留学しないかって誘われるの。だから、すごい大会なんだよ」  話している間、彼女は彼と目を合わせなかった。まるで自らに言い聞かせているかのように見えて、本当はパリでバレエを続けたかったのだろうと彼は悟った。 「……じゃあ、あんたもそのコンクールを目指しているのか」 「うん、もちろん。良介くんは? 高校を卒業したらどうするの?」 「俺は……」  言い淀みつつ、傍らの愛器を横目に捉える。舞台で演奏をし、拍手喝采を浴びる将来の自分の姿を思い描きながらも、彼は口を結んだままだった。 「……まだ、考えているところだ」 「そうなんだ。早く見つかるといいね」  その時、ようやく彼女は隣の良介の方を向いた。その笑顔に陰りはなく、良介は安心して頷いた。 「よっ! お二人さん、仲のよろしいことで!!」 「やるじゃない、会長も隅に置けないわねぇ!」  突然の聞き慣れた声と口笛に、良介は寒気を覚えて固まった。彼女は、不思議そうに彼らと良介を交互に見る。 「えっと……良介くん、お友達?」 「そう! 同じ高校の大親友!! なっ、梅宮?」 「いや、別にそこまでじゃないんだけどね? 腐れ縁よ、腐れ縁!」 「お前ら……何故ここに」  項垂れ、怒りと羞恥に震えながら良介が問う。 「俺はバイト上がったとこで、梅宮は部活の遠征から帰ってきたとこ! ちょうど駅で会ったからさ、良介と夢で見た美少女の密会を偵察しようぜって誘ったんだよ」  その言葉に嘘はないようで、隼人は私服、昌子は制服姿で袴を入れた風呂敷と弓を携えていた。 「ということは……知っていたんだな、お前」 「そりゃそうだ、駅から家までにぜってーここ通るんだからよ」  寧ろなんで知られるわけないって思ってたんだよ、と小馬鹿にするように隼人が笑う。 「それにしても驚いたわね! 本当に予知夢だったじゃない、会長!」 「え、どういうこと……ですか?」  薫が尋ねると、昌子は得意気に良介が見た夢のことを話した。それを聞いて、彼女も目を見開く。 「すごい! 何だか、とっても運命的ね!」  彼女が再び良介の方を見遣ると、彼はまた俯いて右手で顔を隠し、小声で勘弁してくれと呟いた。 「とりあえず、自己紹介しとくな。オレは霧崎隼人、コイツの幼馴染!」 「私は梅宮昌子。私たち、同じ高校で一緒に生徒会やってるの」 「初めまして、私は百合川薫といいます。あの、その鞄のエンブレム……もしかして、鳳凰学園高校の?」  彼女が昌子のそれを指さすと、ええ、私たち皆ここの生徒よ、と彼女は答えた。 「うそ……私、皆と同じ学校に通えるの……!?」 「えっ? じゃあ、新学期から転校して来るってこと!?」 「マジかよ! やったな良介!!」  ようやく顔を上げた良介の肩を思いきり叩いてから、揶揄うように口角を上げて尋ねる隼人。 「で? お前、これからどーすんだよ」 「どうするって……どういう意味だ」 「決まってんでしょ、この子と付き合う気はあるかって聞いてんの!」 「……お前ら、ふざけるのも大概にしろ!!」  良介が叫ぶと、あー怖い怖い、くわばらくわばらと言いながら、隼人と昌子は互いに笑い合った。その様子が可笑しかったのか、薫もつられて破顔する。  それから、四人は揃って帰宅した。雲に隠れていた月は、もう丸くなりつつある。  八月が、終わりに近づいていた。 *  まだ熱気のおさまらない始業式の日。小麦色の肌に汗を伝わせている生徒たちが、手を扇ぎながら、友人と話しながら、次々とホールへ集まっていく。 長身に角型の眼鏡、オールバックが特徴的な生徒会長・剣持(けんもち)学(まなぶ)が司会を務め、自らの挨拶を手短に済ませてから、校長の名を呼んだ。いつも通りの退屈な挨拶に欠伸をする生徒たちがほとんどの中、舞台袖で待機している良介たちだけは、その後にあるであろう転校生の紹介を待ち侘びていた。  しかし、その時が来ることはなかった。 「えー、それでは、以上で始業式を終わります。各自、教室へ戻ってください」 「えっ……!?」  淡々と終了を告げる学の態度に、動揺を隠せない三人。彼が舞台袖に戻った途端、昌子が咬みつくように問う。 「あの、剣持先輩! 私たち、転校生がいるって聞いたんですけど、紹介はされないんですか!?」  彼が昌子の方を見遣ると、心苦しげに返す。 「ああ、そのことなんだけど……残念ながら、できなくなってしまってね」 「そんな……どうしてですか!?」 「先輩。俺たち、実はその転校生と知り合いなんです。何か事情があるなら、教えて頂けませんか」  昌子を差し置いて、幾分か冷静な良介が学に言った。学は、少々逡巡してから、小さな溜め息を吐いて答えた。 「わかった。じゃあ、ホームルームが終わった後、校長室に来てくれ」  良介たちが校長室の前に集まると、学は小さくノックをし、返事を聞いてからゆっくりとその扉を開けて一礼した。 「失礼いたします。転校生の件で彼らが話を聞きたいということでしたので、連れて参りました」 「ああ。ご苦労様」  入室すると、七三分けのロマンスグレーが目に入った。校長と向かい合って座っていたのは、同じく白髪交じりの小柄なナチュラルパーマの老女と、薫に良く似た容姿の中年の女性だった。まるで喪服のようだったが、黒いブラウスに七分丈のパンツ、ハイヒール、そして真珠のネックレスがよく似合っていた。 「あっ……もしかして、薫のお母さん!?」  彼女の姿を目にした途端、昌子は思わず指を差しそうになってしまったが、間一髪のところで抑えた。 「はい、そうです……あの、あなたたちは?」 泣き腫らした顔の彼女が、たどたどしく彼らに問いかける。 「あ、すみません……私たち、薫さんとはもう友達だったんです。今日からこの学校に来るって聞いてて、楽しみにしていたんですけど……来ていないみたいだから、どうしたのかなって、心配になりまして……」  彼女の青ざめた顔と涙の痕を見て、視線を泳がせ、語気を和らげる昌子。それに答えたのは、薫の母の隣で頭を下げた老女だった。彼女のカーディガンとスカートは、濃いグレーだった。 「そうなの、どうもありがとう。こちらは薫の母、私は祖母です。驚かないで聞いて欲しいんだけどね、実は今、孫は警察署にいるの」 「警察……!?」  予想だにしていなかった言葉に身構え、互いに目を合わせる三人。 「今朝ね、突然任意同行を求められて、あの子は付いて行ってしまったわ」 「因みに、何の容疑で……」  隼人が尋ねると、少し間を置いてから、不安げな瞳でみちるは言った。 「薬物所持の疑いで、と言われていたわ」 「薬物!?」 「ええ。家宅捜索もされたのよ、もちろん何も見つからなかったけれど……」  静まり返る校長室に、薫の母の啜り泣きだけが響く。 「匿名でね、通報があったらしいの。孫がパリから持ち帰った『ウィリ』をバレエ教室で売買してる、って」 「ウィリって、あの……!」 「そう。妖精みたいに細く美しい体になれるって言われて、女の子の被害者を多く出している麻薬よ。確かに、あの子の通っていたパリのバレエ学校で売買がされていた事実はあったけれど……あの子は決して、そんなことしないわ! だって、あの子は……ウィリのせいでお友達を亡くしているんだもの……!!」 「そんな……」  遂に泣き出してしまった薫の祖母につられて、昌子の瞳も潤む。その傍らで黙って聞いていた良介は、彼女がわざわざ日本へ戻ってきた本当の理由に気づき、眉間に皺を寄せた。  彼女の祖母は、見ての通り健康だ。つまり、あの時良介と目を合わせずに語ったことは、その場で取り繕った嘘だったということになる。  しかし、それは彼を騙すためのものではなく、自らの悲しみに蓋をする行為だったのだ。そのことに気づかなかった自身を、今更のように責める良介。 「わかりました……ありがとうございました」  頭を下げ、失礼しますと口々に言って三人は校長室を出た。最後に、学が扉を閉める。 「……そういうわけだ。彼女の疑いが晴れない限り、転入は無理だろうね」 「でも、証拠が見つからなければ、逮捕はされませんよね……!?」  真っ赤になった目で、昌子が縋るように言う。 「見つからなければ、ね……」  そう呟くと、じゃあ僕はこれで失礼するよと言い残して、学は彼らに背を向けた。 「クソッ、なんでこんな……!!」  怒りがこみ上げてきたのか、廊下の壁を強く蹴る隼人。 「あの子、今頃どうしてるんだろう……可哀想だわ、あんなに転入するのを楽しみにしてたのに……!」 「なぁ良介、お前はどう思う? まさか、本当に『ウィリ』をばらまいてたって思ってんじゃねぇだろうな!?」  隼人は食いかかるように良介を見たが、彼は至って冷静だった。 「わからない。まずは、第三者からの情報が必要だ」 「はぁ!? 誰だよ、第三者って!!」 「まずは、彼女が通っていたバレエ教室の人間の証言だ。後は、パリにいる時通っていたバレエ学校で本当にウィリが蔓延していて、その所為で彼女が友人を亡くしたという証言が欲しいところだな」 「ところだな、って……なんでそんな落ち着いていられんだよ、お前が一番あいつの傍にいたんじゃねぇか!!」  叫びながら、隼人が良介の胸倉を掴む。止めなさいよ、と昌子が言うと、校長室からも心配そうに様子を伺う大人たちが姿を現した。 「落ち着いていられるわけないだろう!! 俺がもっと早く彼女の嘘に気づいていれば話を聞いてやれるはずだったと、こんなにも後悔しているんだぞ!?」  隼人のワイシャツの襟を掴み、吠える良介。怖気づいたのか、隼人はそれ以上言い返すことなく、彼の胸を放した。 「……悪かったよ。お前の気持ち、わかってやれなくて」  真っ直ぐに良介の顔を見ることはできなかったが、隼人ははっきりと、謝罪の言葉を口にした。そして、校長たちにお騒がせしましたと言って、彼らはその場を後にした。 「……で? 証言してくれそうな奴の見当はついてんのか?」  教室に向かう途中、ポケットに手を入れながら隼人は尋ねた。 「ああ。彼女は、二階堂バレエカンパニーに通っていると言っていた。バレエ教室で薬物を売買しているという通報をした人物は、間違いなくその関係者の中にいる。まずは、その教室の生徒に当たるべきだな」 「それって……もしかして、うちのクラスの二階堂麗羅(れいら)の会社なんじゃね?」 「ああ、恐らくな」  二階堂麗羅とは、良介や隼人と同じ二年B組に所属する、ウェーブのかかった明るい茶髪と高慢な態度で知られている人物である。進級した際、理事長の姪で日本一のバレエカンパニーの令嬢だというプロフィールを自慢げに語っていたことを良介はよく覚えていた。 「オレ、嫌いなんだよなあの女。よく授業サボってるし、ぜってー裏口入学だし、彼氏がヤクザっていう噂もあるし……でも、聞いてみるっきゃねぇか」 「あ、会長、うちのクラスにバレエ習ってる子いるわよ! もしかしたら、同じ教室かも」 「じゃあ、そのクラスメイトに聞いてみてくれ。あとは……母さんに聞いてみる」 「美緒(みお)さんに? なんでだよ、つーか今どこにいんの?」 「ウィーンだ。だが、パリの交響楽団と共演したこともある。バレエ界に精通している知り合いがその中にいるかもしれないだろう」  まぁな、と隼人が返すと、昌子はその隣で目を丸くしていた。 「ちょっと、どういうこと? 会長のお母さん、なんでウィーンにいて、パリのオーケストラに知り合いがいるの!?」 「え、お前、知らなかったのか? コイツの母親、超有名なヴァイオリニストなんだぜ。旧姓で、光元寺(こうげんじ)美緒って名乗ってるけどな」  親指で良介の方を指しながら、隼人は何故か得意気に教えた。驚きのあまり、言葉が出なくなる昌子。 「とにかく、頼んだぞ。梅宮」 「わ……わかったわ、すぐ聞いてくるから!」  我に返り、小走りで二年D組の教室へ戻っていく昌子。良介は席に座るなり、すぐさまスマートフォンを取り出してメールを打つ。 「美緒さんから、何か聞けたらいいけどな」 「ああ……」  送信してしばらくすると、昌子がクラスメイトを連れて良介と隼人のクラスに入って来た。 「連れてきたわよ、会長。やっぱり、同じ教室だったわ!」  彼女の背後には、髪の毛を左右に分けて団子状に纏めた姿の印象的な、細身で色白の女子生徒が立っていた。 「初めまして、後藤(ごとう)綾美(あやみ)といいます」  遠慮がちに会釈をして名乗ったその声は、幼い少女のように甲高かった。 「初めまして、生徒会副会長の真田です。バレエ教室や百合川さんのことについて、話を聞きたいのですが……まず、場所を変えましょう」  そこにはまだクラスメイトが残っていて、そのうち数人が好奇の目で良介たちを見ていたので、彼らは足早にそこから出ていった。  職員室で借りた鍵で扉を開け、生徒会室に入る四人。エアコンのスイッチを入れ、カーテンを開けてから、良介は自らの正面にある書記の机に綾美を座らせた。庶務の隼人は副会長席の隣、昌子は書記の隣の会計席に腰掛ける。 「では、まず……夏休み中に、百合川薫という人が二階堂バレエカンパニーの経営するバレエ教室にやって来たことは間違いありませんか」 「ええ、間違いありません」 「実は、その人がある麻薬をバレエ教室内で売買しているという通報があったらしく、その所為で今日から転入することができなくなってしまったんです。自宅には何も見つからなかったようで、まだ逮捕はされていないのですが……通報をした人物について、何か心当たりはありませんか」 「私、二階堂麗羅が薫さんを貶めたんだと思います」  綾美は、間髪入れずに断言した。自信満々な様子に、少々たじろぐ三人。 「どうしてそう思うんですか」 「だってあいつ……薫さんのこと、教室から追い出したかったはずですもん」 「それは何故ですか」  良介が先を促すと、綾美は次々と話し始めた。  麗羅は二階堂バレエカンパニー社長の娘なので、当然そこが経営するバレエ教室の公演では、常にエトワール――つまり、主役に抜擢されていた。しかしその腕前はたかが知れていて、ほぼ全ての団員がそのことに不満を抱いている。綾美自身も例外ではない。 「だから、突然本場からレベルの高い人がやって来て、かなり焦っていたんじゃないでしょうか。エトワールの座から下ろされることはなくても、実力の差は明らかですから、恥を掻かされたくなかったんだと思います」 「しかし、それらは全て貴女の憶測ではありませんか」 「いいえ。根拠ならあります」  強気な口調を崩さない綾美を、固唾を飲んで見つめる三人。 「私、見たんです。レイラが、薫さんにお近づきの印だって言ってトゥシューズをプレゼントしたのを! だから、もしかしたらその中にウィリが入っていたかもしれないって……」 「茶番はそこまでよ!!」  綾美の証言に聞き入っていた彼らは、突然現れた件の人物の声に驚きを隠せなかった。 「レイラ……どうしてここに!?」 「ハァ? アンタごときがアタシのことを呼び捨てにすんじゃないわよ、偉そうに!!」  不愉快故に歪んだ顔、容赦なく浴びせる罵詈雑言。しかし、感情に任せて平手打ちをしようと振り上げた腕は、隼人によって止められた。 「ちょっと、放してよ!!」 「ちょうどいい。お前からも話を聞かせてもらうぜ、お嬢サマ?」  見下ろしながら冷ややかに笑う隼人をしばらく睨みつけたものの、興醒めしたのか、腕の力を抜いてわかったわよと彼女は言い捨てた。 「アタシの友達が、アンタが生徒会の連中に連れていかれたって教えてくれたのよ。来てみたら、案の定アタシの悪口言ってるじゃないの! 外で話聞いてた奴らが噂を広めたらどうしてくれんのよ!?」  どうやら、野次馬根性で教室から尾行してきた輩がいたようだ。彼女の言う通り、明日には学校中に知れ渡ってしまうだろう。 「それに、でっち上げもいいとこだわ! なんでアタシがあの女にトゥシューズなんかプレゼントしなきゃいけないのよ!?」 「ウソよ、私見たんだからね!! 大体あんたの彼氏、ヤクザの息子なんでしょ!? そいつから密輸したウィリをもらったんじゃないの!?」 「ハァ!? デマばっか言ってんじゃないわよ、学校も教室もクビにするわよ!!」  再び麗羅が綾美に手を出そうとしたので、隼人は麗羅を羽交い締めにした。 「おい、これ以上暴れるようなら校長にチクるぞ!!」 「好きにしたら? どーせ叔父様が揉み消して終わりでしょうけどね!」 「なら、動画を撮っておくか。あんたが後藤さんを本当に殴ったりすれば、暴行罪の容疑で警察に通報してやれるからな。それとも、ネットで公開の方がいいか?」 「……フン、もういいわよ! 勝手にすれば!?」  唾を飛ばして言い放ち、麗羅は力強く扉を閉めて立ち去った。恐れ戦いていたのか、綾美は小刻みに震えていて、呼吸も荒くなっている。 「大丈夫? 後藤さん」  そんな彼女の顔を覗き込みながら、背中を擦る昌子。 「うん、ありがとう。もう平気」  落ち着きを取り戻し、彼女はぎこちなく笑顔を見せた。 「おい、いいのかよ? あいつ逃がして」 「ああ。それより後藤さん、出来れば大人の意見も聞きたいんだが……例えば、バレエ教室の先生に連絡は取れるか?」  綾美は頷くと、すぐに電話をかけた。レッスンが始まる前なら少し時間が取れる、という返答があったので、良介たちは五時に教室の近くのカラオケボックスで落ち合うことにした。 * 「初めまして。二階堂バレエカンパニーで講師をしている、二階堂遥(はるか)という者です」  部屋で十分ほど待っていると、凛々しい顔立ちのショートボブの女性が現れた。三十代後半ほどの、やはり背が高く細い彼女はそれぞれに名刺を渡し、それから腰を下ろした。ノースリーブのワイシャツ、付け爪、ネックレス、指輪、ハイヒール――身に着けているものの全てが赤く、暗いカラオケボックスの中でもかなり目立っていた。当然、アイシャドウとリップも真っ赤である。 「綾美から、大体の事情は聞きました。それで、私に聞きたいことというのは?」 「ええ。綾美さんから聞いた話によると、麗羅さんが薫さんにトゥシューズをプレゼントしたらしいのですが、本人は否定していたんです。どちらの言い分が正しいのかと思いまして、先生をお呼びしました」 「なるほど、そういうことね……」  そこへ、店員がドリンクを持って入って来た。それぞれが注文したものを受け取ると、失礼します、と言って店員は扉を閉めた。遥はアイスティーにレモンを入れ、ストローを咥えて喉を潤す。 「それはね、綾美の方が正しいです。だって、レイラにそう指示したのは私だから」 「つまり、先生が麗羅さんに、トゥシューズをプレゼントするように言ったということですね?」 「そう。だってレイラったら、薫さんが来た日からずっと嫌そうな顔してたんだもの。仲良くして欲しかったから、二階堂カンパニーが取り扱ってる最高級のトゥシューズを包装して、彼女に手渡したのよ」 「包装……?」  テレビ画面が切り替わり、昨今の若者に大人気のバンドが意気揚々と挨拶をし始める。良介の呟きは、彼らの声に掻き消された。 「ところで、先生の名字も二階堂なんですね。麗羅さんとは、どのようなご関係で?」  尋ねられた直後、遥は苦笑いをしながら答えた。 「レイラは、私の義理の娘です。つまり、私は二階堂家の後妻ってこと。彼女の本当のお母さんは、十年ほど前に社長と離婚してしまったのよ。情けないことに、レイラとは全くうまくいってないんだけどね」 「そうなんですね……」 「もう大丈夫かしら? 私、そろそろレッスンに行かないと」  腕時計を確認してから、返事を聞く前に立ち上がる遥。 「ええ、もう十分です。お忙しいところ、有難うございました」  揃って立ち上がり、頭を下げる三人。遥は扉を閉めると、駆け足で出口へ向かっていった。 「……ねぇ、どう思う?」  アイスコーヒーにミルクを入れてストローを掻き回しながら、昌子が問いかけた。溶けてなくなりそうな氷が、遠慮がちに音を立てる。 「どうって、何がだよ」 「先生が、本当のことを言ってるかどうかってこと。だって、あの二階堂さんが義理の母親の言うことなんか聞き入れると思う? いくらコーチとは言え、それはないんじゃないかしら」 「まぁ、それは一理あるな。だからって、レイラ本人の言い分が正しいとも思えねぇけど」 「それもそうね。今のところ、一番動機がありそうなのは二階堂さんだし……」 「その線で進めるとなると、あの女の彼氏が本当にヤクザで、ウィリの密輸をしてるのかどうかを調べなきゃなんなくなるな」 そんなのどうやってやるのよ、と昌子が愚痴を零すように言うと、良介のスマートフォンが着信音を鳴らした。 「もしもし?」 『もしもし、じゃないでしょ! 朝っぱらから母親に仕事させるなんて、相変わらずいい度胸してるわね!』  良介の母・光元寺美緒からの電話だった。歳を感じさせない快活な声は、テレビに映るバンドの演奏を物ともせずに響き渡る。 『まぁいいわ。良介、あなたの言っていた通りよ。パリでもウィリは社会問題になっていて、特に薫ちゃんが通ってたバレエ学校に大きな被害があったって。亡くなった生徒さんは彼女と同期の子で、確かに仲が良かったっていう話を学校の先生から聞けたらしいわ』 「そうか。わかった」 『そうか、わかったですって? そこはありがとうでしょ、あ・り・が・と・う!!』  良介は返事をせず、そのまま電話を切った。隼人は彼らの相変わらずの関係に爆笑し、昌子は唖然として彼を見つめている。 「ちょっと、いいの? せっかく教えてくれたのに、そんな切り方して……」 「問題ない。それより、次は証拠だ」 「証拠って……薫は、何もしてないんじゃないの!?」 「正確に言えば、匿名で通報し彼女に濡れ衣を着せようとでっち上げた輩の犯行の証拠に成り得るものだ」 「なるほど……いくら通報したって、証拠がなければ警察は逮捕できないものね」  昌子が鳥肌の立った腕を擦りながら言うと、隼人は黙って冷房の設定温度を上げた。 「つまり、真犯人が薫に持たせた『ウィリ』ってことだな」  リモコンをテーブルに置いてから隼人が言い、良介が頷く。 「ああ。だが、それに真犯人の犯行の痕跡がない限り、彼女の潔白は示せないだろう」 「あれだろ? お前、薫のトゥシューズにウィリが隠されてるって思ってんだろ?」  ああ、と良介が答えると、どうして、と畳みかけるように昌子が問う。 「後藤さんや先生の証言の真偽はさておき、彼女が受け取ったのがトゥシューズであることは間違いないだろう。何故なら、その爪先の詰め物が入っている部分に『ウィリ』が隠されている可能性が高いからだ」 「えっ……じゃあ、薫の家にそのトゥシューズがあるってこと!?」 「いや。家宅捜索をしても何も見つからなかったということは、彼女は家にそれを置いていない筈だ。フランスで既にウィリの隠し方を知っていたなら、トゥシューズを受け取った直後に爪先の部分の中身を確認しているだろう。ラベンダーと似た香りのする白い錠剤がそこにあれば、彼女はそれがウィリだと確信できる。そして、家に残したり捨てたりするのは危険だと思って、どこかに隠すんじゃないか?」 「どこかって、もしかして……」 「そう。あの噴水のある児童公園のどこかだ」  初めから、夜の公園で一人きりで踊っていることを彼は不審に思っていた。しかし、今ようやくその理由が判明した。練習のためではなく、誰にもそのトゥシューズが見つからないように監視するためだったのだ。指先が土で汚れていたのは落とし物を探していたからではなく、トゥシューズを土の中に隠した後だったからだろう。 「じゃあ、生け垣の根本に……!!」 「よし、じゃあ今夜にでも探しに行こうぜ!!」  隼人がガッツポーズをして大声を出すと、良介は視線を落とし口を噤んでから、いや、と零した。 「悪い。今日の夜はヴァイオリンのレッスンがある」 「はぁ!? 何言ってんだよ、この期に及んで!!」  信じらんねぇ、と罵倒しながら隼人が睨むと、良介は鞄からスマートフォンを取り出し、何かを打ち込み出した。そして縦に伸ばした人差し指を口元に添え、画面を隼人と昌子に見せる。 そこには、『いいから言う通りにしろ』と書かれてあった。 「……わーったよ、じゃあ明日の夜だ」 不満げな表情で隼人が言うと、その時突然扉が開いた。そこにいたのは、店員ではなく息を切らした遥だった。 「ごめんなさいね、スマホを落としちゃったみたいで!」 「スマホ?」 「ああ、あったあった! やっぱり、ポケットに入れとくのは危ないわね。君たちも気をつけて!」  床に落ちていたそれを拾い上げ、脱兎の如く飛び出していった遥。呆気に取られ、しばらく互いを見合う隼人と昌子。 「スマホが落ちた音なんて、したかしら……」 「いや、してねぇと思うけど」 「……隼人。やはり、今夜現場へ急行だ。日没後から張り込むぞ」 「は!? 別にいいけど、何なんだよさっきっから!!」 「そう言うな。都合のいいことに、真犯人も捕まえられそうだぞ」 「えっ、何で!?」  得意気に笑む良介を問い詰めた隼人だったが、わけは後で話すと言ってかわされた。 「待って、私は!?」 「梅宮はいい。夜遅くに女子が来るものじゃないだろう」 「でも……!」 「まぁまぁ、素直に言うこと聞いとけって! それとも何だ、俺たちだけじゃ頼りねぇってか?」 「霧崎……」  得意げな笑みを浮かべる隼人と勇ましい表情を崩さない良介を交互に見て、昌子は溜め息を吐いた。 「わかった。あとは任せたわよ、二人とも」 *  満ちたかと思えば、また欠けていく月。風が強く、雲が次々と頼りない光を放つそれを覆っては離れていく。  誰もいない公園。砂場には玩具が、鉄棒の近くには三輪車が置き去りにされている。噴水の雫の弾ける音と、囁きのような秋の虫の音色だけが響いていた。  点滅を繰り返している電灯の下に、フード付きの黒いウインドブレーカーでその身を隠した人物が現れた。その人物は手元の懐中電灯のスイッチを入れ、噴水を囲むように設置されているベンチの裏の生け垣で屈み、その根元で何かを探り出す。 「おい。そこで何してる」  すると、背後から別のライトの光を当てられた。眩しさに目が眩んだが、何とか逃れようと試みる。しかし、瞬時に腕を掴まれ、動きを封じられた。 「うまく罠にかかったな、良介」 「ああ。……さて、観念して全て話してもらおうか。後藤綾美さん」  隼人がフードを外す前に、良介はその人物の名を口にした。負けを認めたのか、彼女は掴まれていない右手で自らその顔を晒す。 「……どうして、私だってわかったの」  鋭い彼女の眼差しに動じず、腕を組みながら話す良介。 「あんたの不完全な証言のお陰でな。今日、俺は『ある麻薬』としか言わなかったのに、あんたは二階堂麗羅が乱入する寸前、『ウィリが入っていたかもしれない』と口を滑らせた。ニュースで報道されていたわけでもないのに、何故あんたが『ウィリ』と百合川の繋がりを把握していたのか……それは、あんた自身が実行犯だったからに他ならない」 「実行犯……っていうことは、本当に、何もかもわかっているんだね」 「ああ。だからこそ、今夜あんたをここで捕らえることにも成功したんだ」  全身から力が抜けたのか、彼女はその場で膝を落とし、大声で泣き喚き始めた。 「主犯は二階堂遥、あんたは彼女に唆された実行犯。本当の標的は、百合川ではなく二階堂麗羅だった……違うか?」  手の甲で涙を拭いながら、何度も頷く綾美。  良介が最初に二人の繋がりと彼らの証言がでっち上げであることに気づいたのは、証言内容が一見一致しているものの、ある大きな矛盾を孕んでいたからだった。綾美は麗羅がトゥシューズをプレゼントしたと言ったが、遥はそれを包装したと彼らに説明していた。包装していたのなら、伝えられない限りその中身を綾美が知ることはできない。つまり、遥は余計な情報を証言の中に入れてしまったのだ。彼女たちはきちんと口裏合わせをしていたのだろうが、『包装』という言葉の放つ違和感を、良介は見逃さなかったのだ。 「報酬は、別の教室への移籍と、そこでのエトワールの座……といったところか」  嗚咽を絶やすことはなかったが、彼女は少しずつ語り始めた。 「最初は、レイラのお父さんが……二階堂バレエカンパニーの社長が、先生に命じたの。レイラに恥を掻かせないように、会社が密輸してる『ウィリ』を持たせて薫さんを冤罪にして追放しろって……でも、先生はせめてレイラを少しでも嫌な目に合わせてやりたくて、レイラが彼女にトゥシューズを渡したっていう嘘の証言を私に言わせたの。レイラが彼氏からもらった麻薬を意図的に薫さんに持たせて、濡れ衣を着せようとしたっていう噂を流せば、学校での居心地が悪くなろうだろうっていう理由で……」 「……そんな下らない理由で、よく人に大きな罪を着せられたものだな。しかも、彼女はウィリのせいで友人を亡くしているんだぞ!?」 「良介ッ!!」  思わず感情的になって叫んでしまった良介の肩を掴み、静めようとする隼人。綾美はすっかり怯え、両腕で頭を抱え震えている。隼人のお陰で平常心を取り戻し、大きく息を吐いてから、良介は続けた。 「……本当は、あんたがバレエ教室で彼女のトゥシューズとウィリ入りのそれをすり替えたんじゃないのか。たまたま彼女がこの公園に隠してくれたから良かったものの、油断していたあんたは手袋もせず犯行に及んでいて、ウィリ入りの方にはあんたの指紋がしっかりと残ってしまった。だからこそ、今夜それを回収しに来たんだろう?」 「どうして、そんなことまで……」  不思議そうに良介の顔を見上げたが、答えたのは隼人だった。 「それぐらいしか、回収しに来る理由なんかねぇだろ。んで、なんでお前らがトゥシューズを回収したがってることがわかったのかっていうと、ハルカ先生がわざとらしくスマホをカラオケに置いてったからだよ。家宅捜索で証拠品が見つからなかったと良介から聞いたアンタは、オレたちが件のトゥシューズを探すだろうと期待していた。だからこそ、情報を盗むために通話状態のスマホで盗聴しようとしたんだろ?」  レッスンの時間が迫っていると言って退室した遥は、カラオケボックスのすぐ近くで綾美と共に待機していたのだろう。綾美のスマホと通話状態になっている自分のそれからトゥシューズの在り処を聞き出し、かつ良介と隼人が今晩公園へ来ないという事実を確認した直後に遥が現れたことで、逆に悟られてしまったのだ――遥と綾美も、トゥシューズを回収したがっているということを。 「だから、逆手に取ってわざと明日の夜って良介が言ったんだよ。そうすれば、間違いなく今夜、お前らのどちらかを捕まえられるからな!」 「なるほど……だから、うまく罠にかかったって言ったのね」 「けど、ぶっちゃけギリギリだったよな? スマホに気づいたの」  隼人が良介の方を見ると、そうだな、と彼は正直に答えた。 「因みに、今までの会話は全て録音してある。つまり、あんたにもう逃げ場はないということだ。これから一緒に警察署へ行くぞ」  良介が冷たく言うと、綾美は素直にはい、と応じた。  噴水の池に、月の影が儚く揺れていた。 *  後日、良介と隼人は警察署から感謝状が贈られ、校内はしばらくその話題で持ち切りとなった。廊下を歩いているだけで知らない学生からサインや記念撮影を求められ、まるで芸能人になったかのような落ち着かない日々を送る羽目に遭い、隼人は満更でもないようだったが良介は心底嫌そうな顔をしていた。  二階堂バレエカンパニー社長は麻薬密輸の容疑、遥は教唆罪、綾美はトゥシューズをすり替えたことによる窃盗罪によってそれぞれ逮捕された。そうして薫は冤罪であったことが認められ、彼女はようやく、転校生として鳳凰学園高校の敷地へ足を踏み入れることができるようになったのである。  その日、校内では全校集会が行われていた。生徒会長・剣持学が、淡々と司会進行を務める。 「えー、本日皆さんにお集り頂いたのは、この度我が校が転校生を迎える運びとなったからです。本来なら始業式で紹介する予定だったのですが、諸事情により本日、この場をお借りして行うことになりました。それでは、始めさせて頂きます。二年B組に転入する、百合川薫さんです。どうぞ」  彼がその名を呼ぶと、彼女は胸を張り、ゆっくりと、そして堂々と舞台の中央へ歩き始めた。異邦人のような容姿のみならず、そのしなやかな体躯にも驚かされた者が多く、会場全体がどよめき始める。しかし、彼女は一切動ずることなく、美しい姿勢のまま頭を下げた。 「初めまして、百合川薫です。将来はプロのバレリーナになりたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします」  再び会釈すると、会場には数百人分の拍手が鳴り響いた。良介たちも、舞台袖で小さく手を叩く。 「ありがとうございます。……ところで、なぜ私が始業式で皆さんにご挨拶ができなかったのかと言うと、実は私は、ある人たちの陰謀のせいで麻薬の密輸と売買の容疑を掛けられていたからなのです」  彼女がそう言うと、聴衆たちは一斉にざわめき始めた。学は静粛にと言ったが、誰も口を噤もうとしない。良介たちは、一体何を言うつもりなのだろうと不安げにその姿を見つめていた。 「そうです。先日逮捕された、二階堂バレエカンパニーの人たちの策略によって、まず私が疑われ、始業式の日にここへ来ることができなくなってしまったのです。でも、もう大丈夫です。ご存じの通り、ある人が助けてくれたお陰で、私の無実は証明されました」  すると、彼女は小走りで舞台袖の良介の元へ駆け寄った。驚いている間に手を握られ、舞台の中央へ連れ出される彼。 「彼こそが、私を助けてくれたヒーローの真田良介くんです! 皆さん、どうぞ盛大な拍手をお送りください!!」  掴んだ良介の腕を掲げると共に、彼女は声を張り上げた。直後、再び全校生徒の拍手喝采が沸き起こる。生徒たちは勿論、教員たちも手を叩いていた。中には、笑い声や二人を囃し立てる台詞、口笛までもが混ざっている。隼人と昌子に至っては、口元と腹部を押さえて大声で笑い出すのを堪えていた。 「なっ……な、な、」  何てことをしてくれるんだ――という良介の心の叫びが、震えるその唇から放たれることはなかった。  翌日、校内新聞には大きく『生徒会副会長、事件解決によって転校生の救世主へ』という見出しが書かれ、主に薫へのインタビュー内容が記事として掲載されていた。嬉しそうに語る彼女の写真を映えさせたかったのか、体育祭や文化祭といった行事でないにも関わらずフルカラーで刷られている。 「いやぁ、何度見ても傑作だな!!」  教室でA4サイズのそれを眺めながらわざとらしく大声で言い放ち、頬を紅潮させ俯く良介の顔を愉快そうに覗き込む隼人。その傍らで、薫も嬉しそうに微笑んでいる。 「百合川……一体何故、あんなことを」  恨みがましそうに彼女を見たが、さも当然であるかのように返される。 「だって、皆にきちんと知って欲しかったんだもの。良介くんの偉業を」 「頼むから、これ以上ひけらかすのは止めてくれ……学校中で揶揄われる俺の身にもなってくれないか」 「それは、からかう方がいけないんでしょう? 良介くんが気にすることじゃないよ」 「いや、そういう問題じゃなくてだな……」  話が通じず困っている良介の様子が滑稽なのか、隼人は終始面白がっている。  すると、薫は彼の手を取り、真っ直ぐに見つめて言った。 「良介くん。私ね、本当に感謝しているの。出会ったばかりだった私を助けるために、頑張ってくれて……」 「あ、ああ……」  彼女の青い眼差しと向き合うことができず、顔を逸らし、目を泳がせながら答える良介。頬は更に赤くなり、心なしか鼓動も早まっている。 「もしかしたら、これからもこの学校の誰かが事件に巻き込まれたりして、困ってしまうことがあるかもしれないでしょう? その時は、私に手伝わせて欲しいの。だから、今度の生徒会執行部役員選挙で、私も立候補するね」 「なっ……!?」  予想外の発言に面食らったのか、反射的に良介は薫の方を向いてしまった。隼人も、驚いて彼女の顔を見る。 「良介くんも、立候補するんでしょう? 次期生徒会長として。お互い当選したら、その時は改めて、よろしくね」  ふふ、と口元を綻ばせる薫。良介は返す言葉を失い、その場で硬直する。  翌週の校内新聞の見出しには、『麗しき転校生、生徒会役員選挙へ出馬表明! 次期会長候補との関係は!?』と書き出されたという。
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