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第8話 君とミルキー・ウェイを
霧崎隼人、十七歳。彼は健康な体を持ち、両親の愛を一身に受けて育った。西洋人の血を引いてはいるものの、頭脳も容姿も恵まれている方で、何不自由なく生きてきたように見える。しかし、彼の体と心の性別は一致していなかった。
戦隊もの、ロボットアニメ、サッカー――男子が好む傾向が強いものに、幼少期の彼は一切興味を示さなかった。その代わり、彼は女子に混ざっておままごとや人形遊びをするのが大好きで、お姫様が王子様と幸せになるストーリーの絵本をよく読んでいた。欲しがる玩具はヒーローやロボットのフィギュアでもラジコンでもなく、可愛らしいぬいぐるみ。それ故、特に男子たちからのいじめのターゲットにされがちだったのだ。金髪碧眼という外見がそれに拍車をかけたのは、もはや言うまでもない。どっか行け、ガイジン。キモいんだよ、男のクセに――そのような罵声を浴び続けた結果、彼は登園を拒絶するようになったのだ。
この時、彼は悟ってしまったのだ。自分が、日本人としてのみならず、男性としても異端であることを。髪と瞳の色は幼児の段階では難しいが、男性として生まれた以上、男性らしく生きていかなければ、また同じように迫害されるようになるのだということを。
それから彼は転園し、周囲の男子たちの言動を模倣して、自分が本当に好きなもの、本当に欲しているものを封じ込めた。もう二度と、攻撃されないように。せめて、『普通の男子』として振舞えるように。そして何より、新しい幼稚園で初めて友人になってくれた良介に、気味悪がられないように。
そうして、西洋人らしい特徴を除けば、彼は『ごく一般的な小学生男子』となり、滞りなく学校生活を送ることができた。両親も、あれは一時的なものだったと思ってくれたようで、そのことについて彼に言及することはなかった。
しかし、真の試練は小学校高学年になってから始まった。
先に大人の体へ成長し始めるクラスの女子たち。そんな彼女らを、男子たちが好奇の目で見るようになるのは最早必然だった。
隣のクラスのあの子の胸が膨らみ始めてエロい、まだブラをしてないから乳首が浮いててたまらない、同じクラスのあいつはもう生理が始まった、あいつはもう精通を迎えた、オレの兄貴いっぱいエロ本持ってるから今度お前らオレんち来いよ――そんな話題に耐え兼ねて、彼はとうとう、己の秘密を打ち明けてしまったのだ。両親ではなく、当時最も信頼していた良介に。
泣きながら自らの素性を吐露する隼人を見て、その苦しみを少しでも和らげてやりたいと思ったのか、彼の性自認が女性であることを一切否定することなく、良介はただ親身になって彼の話に耳を傾け続けた。そして、彼に言ったのだ。
頑張ったな、隼人。これからも辛いことはたくさんあるだろうが、話ならいくらでも聞いてやるから――。
しかし、自分の苦悩を理解してくれた唯一無二の存在であった良介は、間もなく両親と共にベルリンへ渡ってしまった。その間、隼人は再び塞ぎ込み、やがて精通を迎えてからは自傷行為までするようになった。
毎日毎日、良介と彼の奏でるヴァイオリンの音色が恋しくて恋しくてたまらなかった。失って初めて、彼の存在とその優しい旋律がどれだけ己の心を救ってくれていたのかを知った。
そして、隼人は否応にも自覚したのだ。いつの間にか、良介への恋心が芽生えてしまっていたことに。
「……あっつ……」
東側のカーテンから漏れる強い日差し、既に響き始めている蝉の合唱。気温と湿度が既に高まっている部屋の中で、隼人は眉間に皺を寄せながら身を起こし、エアコンのスイッチを入れた。
男子の部屋なら恐らく置かれていないはずの姿見の前に立つ。己の宿命に歯向かう唯一の手立てとして伸ばし続けている髪を梳きながら、そういえばもう夏休みなんだよな、とどこか他人事のように思う。彼がずっと髪と瞳の色を変えなかったのは、良介と再会する時、すぐに自分だとわかってもらうためだった。
彼は、まだ両親にトランスジェンダーであることを話せていない。そして、未だ考え続けている。これからも男性であり続けるのか、それとも両親に秘密を打ち明け、性転換手術を受けるのかという問題の答えを。
あまりにも男性らしからぬ体つきであることも好ましくないが、だからといって必要以上に男性らしくなるのも不本意である。だからこそ、彼は隠れてアルバイト代で抗ホルモン剤治療を受け続けているのだが、終わりの見えない通院に嫌気が差してきていることも事実だった。しかし、仮にも今まで男性として生きてきたのに、急に女性として再出発することなどできるのだろうか、という不安もある。
「隼人ー、ごはんだよー! 起きてるのー!?」
一階のリビングから、母親の声が聞こえた。気だるげに返事をすると、今度はスマートフォンがメッセージアプリの通知を表示する。送信者の欄には、Shoko Umemiyaとあった。
『元気? 突然だけど、今度一緒にプラネタリウムにでも行かない?』
「…………」
その画面を見つめながら、隼人は最後に彼女と会った日のことを思い出していた。自分のせいで同じ学年の女子生徒が殺されたこと、昌子に辛い思いをさせたこと。そして、まだ正式に付き合ってはいないものの、良介と薫の想いが通じ合ったこと――全てが彼の心を圧し潰し、どうしても、教室に残ることができなくなった。遂に限界に達してしまったその日、彼は朝のホームルームが始まる直前に、学校を後にした。その時、校門の外まで追いかけてきた昌子に、言ってしまったのだ。自分は退学しようと思う、と。
しかし、退学届はまだ机の引き出しで眠ったままだ。
「さて、どうすっかな……」
返答に考えあぐねていると、再び彼女からのメッセージを受信したスマートフォン。
『別に、退学を考え直せって説得したいわけじゃないの。ただ、ちょっと心配だったから、顔を見たいなと思って』
彼女には、読心術の能力でもあるのだろうか。彼の考えていたことは全てお見通しだったようだ。しかし、同時に隼人にも彼女の本心を見抜くことができてしまった。
「バレバレだっつーの、バーカ……」
顔を歪ませながら呟き、隼人はそのままスマートフォンをベッドの上へ投げ捨て、リビングへ降りていった。
*
「よう。待ったか?」
「あ、べ、別に……ありがと、来てくれて」
彼に会うなり、分かりやすく頬を赤らめ目を逸らし、そんな気持ちを誤魔化すように髪を弄り出す。白いワンピースに肩掛けバッグ、黒いヒールサンダル、グレーのカーディガン、そしてイミテーションパールのネックレス。都会のど真ん中の地下鉄駅構内とビルの直結口の前に立っていた彼女は、シックで大人らしい恰好をしていた。
一生懸命考え抜いたであろうそのコーディネートと愛くるしいその表情に、きっと普通の男なら堪らなく嬉しくなるのだろう――と、冷静かつ客観的に、人工知能になったつもりで彼は分析する。一方で、彼は白いTシャツに紺のジーンズ、そしてベージュのボディバッグに黒いランニングシューズという、極めて普段通りの出で立ちでやって来ていた。気合十分な彼女に恥を掻かせるつもりはなかったが、この温度差であわよくば察してくれないだろうか、と考えての選択だった。
「いいな、そのカッコ。似合ってんじゃん」
女性なら意中の相手にどんなことを言われたら喜ぶのか。その答えは、最早調べるまでもない。
「そ、そう……?」
哀れだな、と彼は耳まで赤くなった彼女を見て思った。その恋心が報われることなどないと頭ではわかっているのに、それでも喜んでしまうなんて――でも、それはきっと自分も同じだということもわかりきっている。
「じゃ、じゃあ行きましょ! グズグズしてると始まっちゃうわ!」
居た堪れなくなったのか、乙女心を吹っ切るようにビルの入り口を潜り抜け、エスカレーターに乗る。その間、話すことはおろか、顔を合わせることすらしない彼ら。夏休み中の週末であることもあって、エスカレーターの前後には楽しそうな家族連れやカップル、学生のグループの姿が多く見られたが、その賑わいの中で二人はあからさまに浮いている。
「なぁ。どうしてここにしたんだよ」
流石に申し訳なくなり、背後から話し出す隼人。すると、昌子は振り返らずに答えた。
「何となく……ビルの中なら、お昼ご飯食べられるところもあるからいいかなと思っただけよ。青年科学館とかだと、小学生が多そうだし。ダメだった?」
「いや、別に……」
再び会話が途切れ、沈黙が流れる。傍から見れば、倦怠期か、別れ話をしにやって来たカップルにしか映らないだろう。周囲にまで気を遣わせているように思えて来て、無意識に辺りを見渡してしまう。どうせ誰も気にしちゃいない、自意識過剰だと己に言い聞かせながらも。
あれこれと思案しているうちに、プラネタリウムのある階に到着した。まだ開館して間もないそこはロビーの空間演出にも凝っていて、壁にはプロジェクションマッピングで銀河系が映し出され、子供たちが興奮を隠しきれずに走り回っている。宇宙飛行士を志す彼も例外ではなく、そのアイデアと技術に思わず感心してしまった。
「何ボーっとしてんのよ、早くこっち来て!」
「……あ、悪(わり)ぃ!」
先に受付へ向かった昌子が、列に並んで手招きする。
「思ったより凄いわね、プロジェクションマッピングって」
「お、おう」
「ここね、プラネタリウムにしては珍しく、飲食可になってるのよ。だから、あっちにも並びましょ」
受付で支払いを済ませ、チケットを隼人に渡してから、彼女はドリンクとファストフードの販売コーナーを指さした。まるで映画館だな、と思いつつ素直に彼女の後を追う。
「ねーえ、カイくぅん! アタシ、カシオレがいいなぁ! あとぉ、キャラメル味のチュロスもぉ!」
「おいおい、そんな甘いモンばっか食って大丈夫かぁ? ま、ヒトミはきっと太っても可愛いけどな!」
「もぉう、カイくんったらぁー!」
「…………」
せっかく気持ちが高揚してきたというのに、列に並ぶと目の前には絵に描いたようなバカップルが堂々と体を密着させ、甘ったるい会話をし、挙句にキスまでし出したせいで二人は絶句した。思わず大きな溜め息を吐きたくなったが、その欲求を懸命に抑える。
ヒトミと呼ばれた濃い化粧に長い茶髪の女は、チーター柄のジャケットにヒール、黒いリブニットキャミソール、ジーンズ生地のミニスカートに網タイツ、赤い爪、そしてブランド物の革のバッグをその身に携え、まるでキャバ嬢のように派手な身なりをしていた。挙句、明らかにTPOを弁えられていない大きな緑色の宝石のネックレスまで自慢げに纏っている。
一方、カイという黒いカジュアルスーツの男は地味な顔立ちをしていたが、よく見るとハイブランドの腕時計を左手首に付けており、まだ二十代半ばほどの若さでありながら高収入を得ていることが伺えた。
「……あいつらと席離れてるといいな」
「そうね……」
レジに来てから小声で話した彼らだったが、その願い虚しく、カップルは彼らの席の真横に腰を下ろしていた。まだ先程のように喋り続けていて、周囲の客も迷惑そうな様子である。
「……ごめん、霧崎。最前列がいいかなと思って、残ってた席予約したんだけど……キャンセルして、次の回にする?」
「いや、金が勿体無ぇからいい。始まっても煩かったら注意すりゃいいだろ」
「じゃあ……」
せめてその役目は私がと思い、カップルの女性の右隣に座る昌子。隼人も同じことをしようと考えていたが先手を取られたので、まぁいいか、と思い昌子の右側の席に着き、肘掛けのホルダーにドリンクを置こうとする。しかし、そこには既に隣に座っていた客のものがあった。それに気づいたセンター分けの眼鏡の男性が、慌ててドリンクを自身の右側のホルダーに移す。館内は冷房が利いていて涼しいはずなのに、その男性のワイシャツは汗で濡れそぼっていた。
「あ、すみません」
そう言って、隼人は空いたホルダーにドリンクを置いた。左利きなら左端の席を予約すればいいのに何故この人は右端の席にしたのだろう、と思いながら。
しばらくすると会場が暗くなり、上映開始のアナウンスが響いた。耳に心地良いピアノの演奏が流れると同時に、投影機から幾億もの星々が映し出される。語り手は、落ち着いた清らかな声の女性だった。
『本日皆様にご覧頂きますのは、真夏の夜空の星座と、天の川です。初めにご紹介するのは、夏の大三角形を構成する一等星、白鳥座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルです。七夕で有名な織姫はベガ、彦星はアルタイルであり……』
「わぁ、めっちゃキレイ!! カイくぅん、ヒトミ、本物の天の川も見たぁい! どっかいいとこ連れてってよぉ!!」
「しょうがねぇなぁ、考えといてやるよ! つぅかヒトミ、そのネックレス光ってんじゃん! ヤバくね!?」
「ヤバいっしょ!? これねぇ、暗いところで光る宝石なんだよぉ!!」
美しい夜空に音楽、ゆったりとした語りで本来ならリラックスできるはずが、上映が始まってもやはり件のカップルはお喋りを止めようとしなかった。堪忍袋の緒が切れ、遂に昌子が注意しようとしたその時、何者かがカップルたちを咎める。
「お客様。申し訳ございませんが、上映中はお静かにお願いいたします。ご了承頂けない場合は、ご退席願います」
暗闇の中でその姿を確認することはできなかったが、どうやらプラネタリウムのスタッフのようだ。不服そうに返事をしたカップルはしばらく小声で話していたが、やがて女の方が眠ってしまったようで、男の方も話さなくなった。
『またギリシャ神話では、音楽の神アポロンの息子、オルフェウスに贈られた琴がこと座になったとされています。オルフェウスは、毒蛇に咬まれて死んだ最愛の妻エウリュディケを冥界から連れ戻す際、地上に辿り着くまで決して振り返って妻を見てはならないという条件を冥府の王ハデスから出されました。彼は懸命に耐えましたが、地上に辿り着く寸前、嬉しさのあまりとうとう振り返ってエウリュディケを見てしまいました。その瞬間、エウリュディケは再び冥界へ消え去ってしまったのです』
光り輝くベガを見つめながら、解説に聞き入る隼人。すると、不意に右側のホルダーのドリンクの氷が揺れる音がした。左利きの眼鏡の男性が、間違えて掴んでしまったようだ。
「あの。それ、オレのですけど」
小声で告げると、男性はすぐに手を離したが、謝罪の言葉はなかった。そして、普通ならそのまま自らのものを手に取って飲むはずが、彼はそうしなかった。
『続いて、赤色に光る一等星のアンタレスをご紹介します。アンタレスは蠍座の星で、火星に対抗するという意味を込めて名付けられました。蠍座は、ギリシャ神話に登場する巨人族の狩人オリオンを殺した蠍が星座になったものとされており、そのため冬の星座オリオン座は蠍座が東の地平線から昇ると同時に逃げるように西の地平線へ沈んでいくのだと言われています』
蠍座とオリオン座。必然と思い出すのは、冬のスキー実習での出来事。思えば、あの時からコイツをその気にさせてしまったのかもしれない――そう思いながら横目で傍らの昌子を捉えると、彼女も同じことを考えていたのか、隼人の方を見つめていた。目が合った瞬間、彼女はすぐ視線を逸らしてしまったが。
上映時間は四十五分だったが、あっという間にそれは終わってしまった。会場が明るくなると、名残惜しげに席から立ち上がる人々。
「ヒトミ、起きろよ。いつまで寝てんだよ……って、え!? ウソだろ、何だよコレ!!」
カップルの男が女を起こそうと肩を揺さぶったが、何か異変に気づいたのか、途中から声色が変わった。隼人たちが彼らを見ると、女の首には、明らかに締め付けられた痕があった。どうやら、自身の首元のネックレスが凶器にされたらしい。隼人が慌てて駆けつけると、彼女に息はなく、脈も止まっていた。
「……梅宮、警察に連絡しといてくれ。オレは犯人を捕まえて来る!!」
「え!?」
「あと、右端の席のホルダーのドリンク! ぜってぇ触んじゃねぇぞ!!」
そう言うと、隼人は目にも留まらぬ速さで出入り口から飛び出していった。昌子は混乱しながらも、震える手で何とか110番を押す。
「おい、どういうことだよ!! 何で、何でヒトミが殺されなくちゃなんねぇんだよ!?」
「ちょっと、離して! 落ち着いてください!!」
パニックに陥ったカップルの男性が、縋るように昌子の腕を掴む。周囲の客も何事かと騒ぎ始めた時、隼人が右隣に座っていた眼鏡の男性を連れて戻って来た。男性は必死に逃げようとしていたが、掴まれた手首が解放されることはなかった。
「何ですか、僕が何をしたっていうんですか!!」
「あっ……!!」
その声を聞いて、昌子はすぐに気づいた。カップルの私語を注意したのはスタッフではなく、その振りをした彼だったのだ。
「あんたが間抜けな人殺しで助かったぜ。まさか、最後までオレのドリンクを自分のだと間違えて持ってくとはな」
隼人が怒りの形相で言うと、男性は顔面蒼白になった。昌子が二人の席を見ると、確かに隼人の席の右側のホルダーが空になっている。だから、男性のドリンクが右端に残されていたのだ。
「じゃあ、アンタがあれに触るなって言ったのは……」
「ああ。その中に、睡眠薬が入ってるはずだからな。あと、付いているはずのない死んだ女の指紋と唾液も検出されるはずだ……そうだろ?」
言いながら睨みつけると、眼鏡の男性は敗北を悟ったのか、肩を落として床に座り込んだ。
「おい、どういうことだよ、説明しろよ!!」
涙目になって隼人の胸倉を掴み、問い詰めるカップルの男。しかし、隼人は動揺せず淡々と答える。
「アンタの彼女、こいつに睡眠薬盛られてから殺されたんだよ。暗闇の中でも光る蓄光剤加工ジュエリーのネックレスを事前に贈って、目印にしてな」
隼人は、初めから右隣の男性を不審に思っていた。まず、頑なに隼人と話そうとしなかったこと。左利きなら、隣の客とホルダーで揉めないよう左端の席を予約するべきなのに、そうしなかったこと。自身の左側にあった隼人のドリンクを間違えて飲もうとしたにも関わらず、その後右側に置かれた自らのドリンクに手をつけようとしなかったこと。そして、再び間違えて左側の隼人のドリンクを掴み、誰よりも早く退場していったこと――それら全てが、ヒトミという女の死によって隼人の脳内でパズルのように連結されていったのだ。
「オレと口を利こうとしなかったのは、スタッフの振りをして注意した時に正体がバレることを防ぐため。左利きなのに右端の席を予約したのは、うっかり自分や他の人間が睡眠薬入りのドリンクを飲んでしまうことがないようにするため。オレのと間違えた後自分のを飲まなかったのは、もちろん睡眠薬入りだったから。最後にまた間違えたりしなければ、完全犯罪になったかもしれねぇのに……残念だったな、お兄さん?」
挑発するように男性を見たが、彼の目はもう虚ろで、全身を震わせ、過呼吸になりかけている。
「睡眠薬入り……じゃあ、注意した時に彼女のドリンクと自分のをすり替えて眠らせて、それから目印になっていたネックレスで絞め殺したってこと!?」
昌子が叫ぶように言うと、隼人は強く頷いた。
「そういうことだ。途中で寝始めても誰も不自然だとは思わねぇし、意識がなければネックレスを外されても、それで首を絞められても当然気づかねぇ。真っ暗闇の中、他の客はプラネタリウムに夢中。殺すシチュエーションとしては最高だっただろうな」
「…………」
「そして、死んだことを確認してからすり替えたドリンクを元に戻し、最後に睡眠薬入りのドリンクという唯一の証拠を隠滅しちまえば完璧だったっつーわけだ! お兄さん、頭はそれなりにいいんだろうけど、あがり症でうっかり屋でもあるんだな。緊張で喉ずっとカラカラだったんじゃねぇの? 今も凄いぜ、手汗」
「失礼、捜査一課の者です!」
その時、ドアから数人の刑事たちが警察手帳を翳しながら現れた。鑑識課、と背中に書かれたジャケットを着た人々もいる。昌子が手を振り、こっちです、と言って呼び寄せる。
「刑事さん、この人を容疑者として連れてってください。証拠はあの右端の席のホルダーにあるドリンクです。あの中に睡眠薬、ストローに被害者の唾液、コップには被害者とこの人の指紋が付いているはずです。オレも証人として同行します」
「あ、ああ……わかった」
流れるような説明に呆気に取られた刑事だったが、我に返って返事をし、男性に手錠を掛ける。
「じゃあ、君も一緒に署まで頼むよ」
「はい」
「待って、私も!」
慌てて名乗り出て、その背を追う昌子。
「霧崎、アンタ凄いわね。とうとう、会長なしで事件を解決しちゃうなんて」
「別に。ただ、アイツならどう考えるかなって思っただけで……」
「……そう」
パトカーの後部座席での二人の会話は、それっきりだった。
容疑者の名は、向井(むかい)伸司(しんじ)。彼は殺害現場となったプラネタリウムで勤務していたアルバイト社員で、以前はサラリーマンだった。その頃熱心に通い詰めていたキャバクラで贔屓にしていたのがヒトミという女だったらしい。
彼は彼女に夢中だったが、上司のパワハラを苦に会社を辞めた後は収入が減ってキャバクラに通えなくなり、彼女に会えなくなってしまった。自分が彼女に会えない間、彼女が他の男と一緒にいるなんて耐えられない――嫉妬に狂った彼は、いっそ自分の贈り物で殺して永遠に自分のものにしてしまおうと考え、殺人を決行するに至ったそうだ。蓄光剤入りの宝石のネックレスはなけなしの貯金で来店した際に渡したもので、プラネタリウムのチケットも一緒にプレゼントしたという。
隼人たちが警察から解放されたのは、すっかり日が落ちて、辺りが夕闇に包まれた頃だった。ビル群の灯りと大通りの車のライトが、都会の夜を彩っている。
「何だか、今日は災難だったわねー……」
警察署の前で両腕を天に伸ばし、溜め息を吐いてから呟く昌子。本来なら隼人と大事な話をするつもりだったのだが、予想外のことで時間と体力を割いてしまったので、彼女は既にその目的の達成を諦めていた。
「疲れたし、もう帰りましょ?」
しかし、そう思っていたのは彼女だけだったらしい。隼人はきょとんとした後、その提案を弾き返すように言った。
「何言ってんだ、これからが本番だってのに」
「は? 本番?」
「仕切り直しだ。見に行くぞ、本物の天の川」
「はぁあ!?」
素っ頓狂な声を上げる彼女を他所に、スマートフォンを素早く操作する隼人。
「適当なキャンプ場予約しとくから、お前は一旦帰って泊まりの準備しろ。あと、オレみたいに動きやすい恰好に着替えとけ。田舎の朝晩は夏でも冷えるから上着も持って来いよ、いいな?」
「いいな、じゃないわよ! 勝手に話進めないでくれる!?」
「何だよ、オレに話したいことがあるんじゃねぇのかよ」
「そ、それはそうだけど……!」
話しているうちに予約ができたようで、キャンプ場のホームページのリンクが昌子のスマートフォンに送られてきた。
「オレはこのまま直接行くから。また後でな!」
「ちょっと、霧崎!!」
意味もなく呼び止めてしまったが、彼は振り向くことなくそのまま地下鉄の駅の入り口へ吸い込まれていった。彼女はしばらくその場で立ち尽くしていたが、別れ際の彼の嬉しそうな顔を思い出すと、従う他なくなってしまう。
「もう……行けばいいんでしょ、行けば!」
自らに言い聞かせ、彼女も駅へ向かって走り出した。
*
「よう。遅かったな」
電車を乗り継ぎ、最寄り駅からタクシーに乗りやっとの思いで辿り着いた時、隼人は既に全ての準備を終えていた。テントは二つ張られ、テーブルと椅子も設置され、焚き火でバーベキューセットまで焼かれている。
「遅かったな、じゃないわよ! こんな山奥、時間かかるに決まってるじゃない!!」
体育祭のチームTシャツに七分丈のチノパン姿になった昌子が、バックパックを砂利の上に置いて抗議する。
「そんなカッカすんなって。キャンプ代は全部出すからさ」
まぁ座れよ、と言って椅子を勧める隼人。少々唇を尖らせながらも、昌子は黙って腰を下ろした。
「じゃ、未成年はジュースで乾杯といきますか」
缶ジュースを昌子に手渡し、無邪気に笑う。楽しそうな彼の姿を見たのは、いつ振りだろうか。
こつん、と缶と缶をぶつけ、ぬるくなったオレンジジュースで喉を潤す。風は爽やかで、夏の気配は嘘のように消え去っていた。
眼前には清流があり、周囲の家族連れのスペースには浮き輪や水着、ビーチサンダルが干されている。昼間は子供たちが楽しく遊んでいたのだろう、と思いながら昌子は流れる水の音に耳をすませた。炭と焼かれた肉の匂いが漂う河原のキャンプ場の夜空に月はなく、灯りは火とランタンのみ。揺らめく炎が、パチパチと小さく音を立てる。
「ここさ、よく家族で来てたとこなんだよ。親父と一緒にテグ打ってテント張って、斧で薪割って火を熾して、バーベキューして……キャンプのことは、全部親父から教わったんだ。ダイビングもな」
焼けたソーセージとトウモロコシを紙皿に乗せて、昌子に渡しながら話す。
「ありがと。そういえば、スキーの時もそんな話してたわね」
「ああ。そんで、星のことはお袋から教わった。学生の時は天文部だったらしくてさ、結構詳しかったんだよ」
「へぇ。仲いいんだ、ご両親と」
「でも……言えてねぇんだ、まだ」
何を、とは敢えて言わなかった。彼女も、その心中を察して追及しなかった。
「疑ってはいると思うぜ? だって、幼稚園の時は女子そのものだったんだからな。けど、いざ改めて言おうとすると……怖くて。どんな顔されて、何を言われるか全然わかんねぇからさ……」
薪を放り投げ、燃やされていく様を見つめながら、微かに声を震わせる。何を言うべきかわからず、黙り込んでしまう昌子。
「……ねぇ、一つ聞いていい?」
横目で隼人を窺い、彼と視線を合わせてから、ずっと疑問に思っていたことを彼女は尋ねた。
「どうして、何度も私のことを助けてくれたの? 私は、アンタの恋愛対象にはなり得ないのに」
「…………」
トングで肉と野菜を返しつつ、言葉を探す。
「確かに、恋愛対象ではねぇな。ただ……」
「ただ?」
「……オレがもし女の体で生まれて、普通に女子高生になれていたとしたら……きっと、お前みたいな感じだったんだろうなって思ってさ。よく笑って、よく怒って、自分にも人にも正直で、仲間と一緒にいる時が一番幸せで……まるで、鏡の中の世界に存在するもう一人の自分みたいに見えて来ちまったんだよ。そう考え始めたら、どうしても、気になるようになっちまって。だから……お前が危険に晒されてたら、頭で考えるより先に体が動くようになっちまったんだよな」
はは、と苦し紛れに笑ってみせる。返事がないな、と思って昌子を見ると、彼女はいつの間にか静かに涙を零していた。喜怒哀楽を表さぬまま、一粒の雫をただ流している。
「お、おい、何も泣くことねぇだろ!?」
「あ、ごめん……違うの、これは……」
それは、悲しみの涙でも、哀れみの涙でもなかった。彼女が彼を想っていた本当の理由がわかり、そして彼も同じことを考えていたことがわかり、その奇跡に、喜びに涙したのだ。しかし、その時の彼女に自身の心の内をうまく表現することは難しかったようで、その後に続く言葉はなかった。
「……取り敢えず、星でも見ようぜ?」
焼けたものを皿に盛って立ち上がり、焚き火から離れて昌子を誘う。彼女は、涙を手の甲で拭ってから彼の隣に立ち、空を見上げた。
「やっぱ、天の川は薄いな。見えるか?」
昌子が首を横に振ると、だよな、と言って隼人はスマートフォンをズボンのポケットから取り出した。
「今時はさ、アプリで星座がわかるから便利だよな」
そう言って天に翳すと、画面の中の星と星が線で結ばれ、星座の姿とその名称が現れた。感嘆の声を上げ、目を輝かせる昌子。
「凄い、こんなアプリがあるのね! 初めて知ったわ」
「すげぇだろ? ほら、あれが夏の大三角形。こと座のベガとわし座のアルタイル、そんで白鳥座のデネブ。ベガが織姫でアルタイルが彦星だから、その間の白い靄みてぇなのが天の川なんだよ」
「……はっきりとは見えないけど、言われてみればちょっとわかるかも」
「もっと見えるかと思ったんだけどな。修旅で言った石垣島なら、すげぇキレイに見えるんだぜ」
「えっ、そうなの!? 行ってる時に言いなさいよ、そんな大事なことは!」
「何言ってんだ、それどころじゃなかったじゃねぇか」
目尻に皺を寄せ、満面の笑みを見せる。そんな彼の横顔が堪らなく愛おしくて、気づけば彼女は、しがみつくように彼を抱き締めていた。
「……おい、梅宮?」
「好き。私、好きなの。アンタのことが」
「…………」
「だから、笑っていて欲しかった。辛そうなアンタの顔なんて、見たくなかった」
「……ああ」
「ねぇ、もうダメなの? 本当に退学しちゃうの? 私、アンタのいない学校生活なんて、考えられない……!!」
再び涙腺が緩み、今度は隼人の胸元を濡らす。彼は何も言わず、ただ、あやすように彼女の頭に触れる。
「……まるで、オルフェウスみてぇだな」
「え……?」
呟かれた言葉の真意がわからず、それを問うように見上げる。
「ほら、プラネタリウムで言ってただろ。こと座は、最愛の妻を冥界まで迎えに来たオルフェウスの琴だって」
「でも、結局約束が守れなくて、連れ戻すことができなかったんでしょ?」
「ああ」
「……私、アンタの傍にいるためなら、どんな約束だって守ってみせるわ。だからお願い、戻って来てよ……!!」
彼の服を掴み、必死に訴える。そんな彼女の姿を見て、エウリュディケはきっと、迎えに来てもらえただけで幸せだったのだと彼は思った。けれど、やはり本心では、オルフェウスと再び地上に戻って添い遂げたかったのだろう、とも。
エウリュディケに選択肢はなかった。だが、今の彼には、道を選ぶことが許されている。
彼は、星空を仰ぎながらぽつりと呟いた。
「梅宮。オレ、学校辞めるの止めるわ」
「えっ……?」
「何か、大丈夫な気がしてきた。お前が傍にいてくれるなら」
「何よそれ、どういうこと……?」
「お前といるとさ、自分がトランスジェンダーだとか、そういうの全部どーでも良くなるんだよ。男だとか女だとか、ごちゃごちゃ考えなくていいんだって心の底から思えて……何か、安心するからさ」
自らの気持ちを紐解くように語りながら、そっと彼女の細い体を包む。
「オレは、お前に恋をすることはできない。でも、愛することならできる。それでもいいか、昌子」
「……!」
彼の胸が、彼女のように高鳴ることはない。今も、そしてこれからも。けれど、彼女はそれでも構わなかった。
ええ、と彼女が小さく答えた時、二人の頭上で流れ星が煌めいた。
*
次の日も、良く晴れた真夏日だった。蝉に起こされ、汗水垂らしてテントを畳み、二人で帰路を辿る。
誰もいない電車の中で緑色の車窓を眺めていると、いつの間にか眠ってしまった隼人が彼女に寄り掛かってきた。初めこそ驚いたものの、昨晩の言葉は本当だったんだと思えて、つい頬を緩ませてしまう。
子供のように愛らしい寝顔を見つめ、長い髪を撫でながら、彼女は思った。人はどうして、心と体の性別に囚われて生きていかなければならないのだろう。皆がそれに関係なく自由に生きていくことができたらどんなにいいだろう、と。
彼のように苦しむ人々は、もっとたくさんいるはずだ。彼らのために、私ができることは何だろう――彼女がその答えを導き出すのは、もう少し先のことである。
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