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お嫁さん
「麟太郎さんのお嫁さんにしてくれませんか?」
木をやっと登り切って、珠々の隣に腰かけた俺はそのまま、ずり落ちそうになっていた。その様子を見て取った珠々は小さく「いきなり、ごめんなさい」と言う。
「お見合いの相手が気に入らないの?」
そう聞けば、意を決したように小さく首を振りながら、俺の方を見る。
「愛人でもダメでしょうか?」
そう言う珠々の目は真剣そのもののような気がする。
「いきなり愛人ですか?確かに私は結婚していましたが、離縁したので、珠々をお嫁さんにもらうことは出来ますよ。わざわざ愛人ではなくてね」
「愛人でも十分なのです」
珠々にお見合いの話があることは、先ほど口入屋から聞かされてはいた。こちらの滞在中、家具などをいくつか処分したいものがあるから、その件で依頼したからだ。私が最後にこちらに滞在したのは、もう10年前近い。あの当時、珠々のことを私の母が気に入り、週に2、3日はウチの家に遊びに来ていたと思う。
「お見合いはいつですか?」
「正式なモノはありません。母がいいと言えば、決まってしまいます」
現在の珠々の家の女主人は、彼女の義母にあたる。今は結納金の額を吊り上げる交渉でもしているのだろう。相手の男は、聞くところによれば、珠々の亡くなった父親よりも年上だと言う。
「それでは、お母様に許可を頂きにあがらなければなりませんね。確認ですが、私もあなたより10ばかり年上ですが、構いませんか?」
「私を貰っていただけるのですか?」
「喜んで」
一瞬嬉しそうな表情を浮かべ珠々だったけど、すぐに顔を曇らせた。
「私は瑕者なので、本当に愛人で結構ですし、十分なのです。母にはちゃんと伝えておきますし」
瑕者?見合い相手に、無理矢理、手を付けられたりしたのだろうか?彼女の表情からそこまでは読み取れない。昔は屈託なく笑っていた珠々は、私の知らない間に辛い経験をしているのかもしれなかった。
10年程前、私と最初に会った時には、珠々の生母は既に亡くなっていた。今日こうして久しぶりに顔を合わせた時には、頼りにしていた父ももう亡くなっている。義母との関係はあまり上手くいっていないと噂されていた。後添えとして自分の息子を連れて珠々の衣澤家に入り込んできた珠々の義母は、浪費家らしく、衣澤の財産を使い果たそうとしているとか。その生活を継続させるために、高利貸しを生業としている男との婚姻を珠々に無理やり強いているとも聞いていた。
「私も一度目の結婚は失敗しているので、瑕者ですかね?」
「麟太郎さんは違う。麟太郎さんは以前と変わらず、おきれいなままです。私には、その・・・背中に傷があるから・・・」
背中に傷?それで疵者?
確かに、昔はそんな傷なかったはず。しっかりと見たわけではないけど、母が珠々に洋服をあつらえてあげたことがあって、その時の採寸の現場の部屋にたまたま入り込んでしまった時があったことを思い出していた。
「何か事故にでも巻き込まれたのですか?」
私がそう聞けば、俯く角度が深くなる。
「2階の窓から飛び降りた時に怪我をしました」
窓から飛び降りる状況が彼女にとって幸せな出来事ではなかったことくらい想像がつく。
「それは大変だったのでしょう・・・生きてくれていて、よかったです」
そう言えば、彼女は僕の顔を伺うように見つめてくる。感情が読み取れない。私の知っている珠々はいつも子犬のように楽し気で、微笑みの絶えない子だったのに。
「そろそろ下りませんか?」
珠々は頷くと、私が手を貸すよりはるかに早く、軽やかに木を降りてしまう。こちらも、あわてて降り立った。
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