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鬼の笑うは恐ろしや
佐伯さんを家に招いてかれこれ30分は経っただろうか。
私を包んでいたもやもやは、気付かぬうちにふたりの笑い声と共に霧散していた。
目の前では佐伯さんが時折コーヒーを口にしながら、屈託のない笑顔でドジな社員の話を続けている。
やはり私の選択は間違っていなかった。
こんなときだからこそ、佐伯さんのからりとしたパワーが私を良い方向へ導いてくれるのだ。
佐伯さんのカップがすでに空になっていることに気づいた私は、お湯を沸かそうと立ち上がる。
弾みで、テーブルの端に置いていたバッグが床に落ちた。
転がり出た衝撃で蓋の開いた瑠璃色の小箱を慌ててしまうと、目を輝かせる佐伯さんと目が合った。
「えっ、それって婚約……指輪?」
私は観念したように舌を出す。
「バレちゃった。じつは今度、結婚するんです」
きゃあ、と少女のような声を上げてから、佐伯さんは今まで見たことのないような笑顔で、おめでとう、と手を握ってくれた。
私は素直にそれがとてもとても嬉しくて、思わず涙が溢れた。
「ありがとう、佐伯さん!」
佐伯さんもうっすらと目に涙を滲ませて、うんうんと頷いてくれている。
「そうだ、何かお祝いしないと……って、あらやだ、私マドレーヌ置いてきちゃってる!」
一瞬の静寂のあと、私たちは大声で笑いながらハグをした。
マドレーヌを取ってくると玄関を出ていった佐伯さんを見送ったとき、スマホが準司からの着信を伝えた。
最悪だ。
こんな幸せなタイミングで、どうしてあんな重い話の続きを聞かされなければならないのだ。
私は電話に出るか迷ったが、佐伯さんが戻ってくるまでと決めて画面をタップする。
「大事なことを伝え忘れました。母の特徴です」
こちらの言葉を待たずに準司は切り出した。
「それ、後からでもいい? 今、お友達とお茶してるの」
冷たく言い放ったつもりだったが、準司は諦めなかった。
「聞いておいた方がいいです。そういう人が近づいてきたらすぐに逃げられるから!」
小心者め。
そう唾棄しながらも、スマホ越しに伝わってくる迫力に私は折れた。
「どうぞ、言って?」
唾を飲む音が聞こえ、準司はゆっくりと喋りだす。
「母は、右手の肘に火傷の跡があります。それと、左耳の下に比較的大きいホクロが。それと、喉に縦長の小さなアザが……」
私の身体に衝撃が走った。
比喩などではない、物理的な衝撃に私は膝をつく。
振り返ると、たったいま伝えられた特徴と見事に合致した女が、先程と変わらぬ屈託のない笑顔で私の腹に深々と包丁を突き刺している。
「佐伯、さん?」
まだ現実が信じられない私は、ゆっくりと佐伯さんに手を伸ばす。
スマホからは準司の叫ぶ声が聞こえていた。
「こいつもぜぇんぶ、私の息子のためなんじゃ」
子供の頃に聞いた訛りだった。
身体から力が抜け、私は地面に横たわる。
薄緑のブラウスは、真っ赤なドレスのように私に張り付いていた。
現実感が遠のいてゆく。
玄関の外で悲鳴が聞こえた気がしたが、どうでも良かった。
そうか、鬼は……。
薄れゆく意識の中、私の耳にはいつか聞いた笑い声がこだましていた。
了
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