人に入りては鬼笑う

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人に入りては鬼笑う

 8月15日、10時25分。  待ち合わせまでにはまだ十分すぎるほど時間があったが、私はそれまでに感情を整理しておかねばならなかった。  靴箱の全身鏡を見ると、ジーンズと淡いグリーンのブラウスを纏った私がドアノブへと手を伸ばしている。  特別な日に気取らぬこのいで立ちで臨むことに、今日の自分は普段通りでいられるという強い暗示の意味も込めた。  アパートの扉を開けると、私の気持ちをまるで無視したように晴れ渡る空が眼前に広がる。  ため息まじりに駐車場へ向かい、車のキーをバッグから取り出したタイミングで背中に声がかかった。 「久子ちゃん! お出かけ?」  振り返る私の顔に、意識せず笑顔が戻る。 「そう、友達と鰻食べるの!」  信頼する人にさえ、咄嗟に自分を守る嘘をついた。 「いいじゃない。美味しいの食べてね!」  高級料理の対句によく用いられる『羨ましい』などという粘度の高い言葉は彼女の口から漏れ出ることはまずないのだろう。  それが彼女の最大の魅力だった。  はす向かいのアパートの窓からウェーブのかかった黒髪を覗かせて手を振る佐伯さんは、実に付き合いやすい女性だった。  義実家と揉めて離婚したという彼女はその教訓を活かし、決してこちらに深入りせずに爽やかな距離感と言動をもって私と接してくれる。  私よりも20歳ほど年上だろうが、私がこの近所で敬語を使わずに話せるほど信頼できるただひとりの存在だ。  私の人間関係はこのぐらいの距離感がちょうどいい。  子供の頃は田舎の濃密すぎる閉鎖社会に辟易し、都会では無味乾燥な人間関係に絶望した。  だから私は田舎でも都会でもなく人と人との距離がちょうど良い、駿河湾の見えるこの街に住むことを決めたのだ。 「会社でマドレーヌ貰ったからさあ、あとでお茶しよう!」  満面の笑みでそう言ってくれた佐伯さんに手を振り、私は車に乗り込む。  エンジンに火が入る軽快なノイズを聞きながら、私はステレオの音量を思い切り下げた。  これから考え事をするのに、ジャズは邪魔になる。  私はシフトレバーを入れ、住宅街の細い道を国道に向けて走り出した。
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