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姉と弟と
街の中心部へ向かう国道の渋滞は予想していたよりもひどかった。
私ははるか向こうまで続く動かない車列から目を逸らし、助手席に放り投げてあるバッグをたぐり寄せて中から瑠璃色の小箱を取り出す。
小箱は少し力を込めただけで音もなく蓋がスライドし、中から小ぶりなダイヤモンドの乗ったリングが姿を現した。
口角が上がる。
先週末に、私は付き合って二年になる恋人からプロポーズを受けていた。
笑顔が絶えず、私のすべてを受け入れてくれる優しい男性だ。
本来ならば真っ先に佐伯さんのような友達にプロポーズされたことを話し、おめでとうの言葉をシャワーのように浴びるというのが当たり前なのだろう。
しかしその翌日、全くの不本意ながら私はその喜びを誰にも伝えぬうちに、真っ先に一史に伝えた。
五年前に一史と交わした約束を守るために。
社会人となって仕事に追われていたある日、連絡先だけは知っていた一史からいきなり電話があった。
戸惑う私に一史は早口でまくし立てる。
もし結婚が決まっても誰にも言わず、真っ先に俺に言え。
理由はそのときに話す。
絶対に誰にも話さないと約束してくれ。
一方的に用件だけを伝えられ、訳の分からない約束をさせられて嵐のように電話は切られた。
馬鹿にするなと通話の切れた電話に悪態などついたものの一史の語気には有無を言わせぬ迫力があり、私は一史へ抱いていた恐怖心を思い出した。
後ろから鳴らされたクラクションに顔を上げると、車の前にはずいぶんと長い隙間が空いていた。
私は慌てて小箱をバッグに戻しつつ、ハザードを明滅させて感謝と謝罪を同時にアピールする。
私は、かき乱されている。
喜びと恐怖という両極端なベクトルに右往左往しているのだ。
視界の隅に映った淡いグリーンの袖が、やけに空々しくエアコンの風になびいていた。
予定時刻の15分前に鰻屋に着いた。
受付で名前を告げると、驚くことに一史はもう私を待っているという。
先に着いて待つという精神的優位を保ちたかった私は、ここでもまた冷静さをひとつ失った。
音ひとつしない板張りの廊下を進み、告げられた部屋の前で立ち止まって呼吸を整える。
大丈夫だ。
会うのは人間であって、鬼ではない。
言い聞かせて扉をノックすると、中からどうぞという男の声が返ってくる。
震える手でゆっくりと開く扉の向こうで、四人掛けのテーブルに腰掛けた男が頭を下げる。
大きな目、福耳、厚めの唇に尖った顎のライン。
皺こそいくつか散見されたが、あの頃の面影をそのまま残したスーツ姿の一史がそこにいた。
慌てて視線を走らせても、柔和な表情には鬼の気配は感じられない。
「お久しぶり。元気にしてましたか?」
席に着いた私に、20年という隔たりを含んだぎこちない言葉が投げかけられる。
「まあ、お陰様で」
私も私で、経験から導き出した最も当たり障りのない言葉を返す。
「連れが来たら作り始めてくれって伝えてるけど、鰻重で良かったですか?」
私が頷くと、安心したように一史の顔が綻んだ。
「まずは婚約おめでとうございます。そして、約束を守ってくれて嬉しい」
私はいちど頭を下げてから一史の目をじっと見つめる。
距離感の曖昧な顔に怪訝な色が走った。
「ありがとうと素直に言えればいいんだけどね……。その前にどうしても聞いておきたいことがあるんだ」
私が言い終わって水を口に含むまでの一連の動作を、一史は固唾を飲んで見つめていた。
「俺も話さなきゃいけないことがある。そのために今日はここに来ました」
あくまでも他所行きの言葉を纏ったままで一史は続ける。
「食べ終わってから話そうと思いましたが、先に大事なことを伝えます」
私は鬼に憑かれています。
そう言われても驚かない自信があった。
一史は居住まいを正すと、ゆっくり目を閉じてから大きく息を吐く。
次の瞬間、発せられた言葉に私は思わず目を見開いた。
「私は宮路一史ではありません。弟の準司です」
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