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弟と鬼と
運ばれてきたアイスラテは何の味もしなかった。
ただ乳成分の持つ重みが舌の上を這い、喉へと落下してゆく。
私はいちど深くまぶたを閉じて耳を塞ぎ、できる限りの情報を遮断した。
それが奏功したのか、準司から与えられた信じ難い情報が機序良く並べられていくようだった。
準司によると、父は毒を盛られて殺されたらしい。
母は一史に指示して、父の腎臓が良くなる薬だと嘘をつき、スギヒラタケとカエンタケという毒キノコの粉末をコーヒーに混入させた。
祖母に関しては強い睡眠薬をお茶に混ぜさせ、母が裏口から祖母の寝室に侵入し、水路で溺死させたとのことだ。
つまり私があの日に聞いた鬼の笑い声は、祖母を亡き者にして笑う母の声だったのだ。
準司はその事実を知らぬまま、一史としばらくの間入れ替わるのだと母に言われ、子供用の服を渡された。
同時にその場で、これから準司は四国で暮らすこと、一史が入れ替わりを望んでいること、いいと言うまでこのことは誰にも話さないことなどを約束させられたらしい。
準司は当たり前のように嫌がったが、必ず迎えに行くという母の言葉を信じ、会ったこともない夫婦の下で高校卒業までの10年を過ごしたらしい。
次に母から接触があったのは、入れ替わりの人生にすっかり馴染んでしまった22歳のときだったという。
準司は母を自宅へ招いたそうだが、母はそのとき初めて、15年前に宮路家で起きたことと、その犯人が自分であることを準司に告げた。
さらに準司が四国へ引き取られる直前に一史に手をかけ、遺体を準司のものと偽って埋葬したのだと涙ながらに告白したらしい。
三人を手にかけた理由は、勝手な理由で宮路家を追い出されて辛酸を舐め続けさせられたことと、遺産相続から準司を除外されたことに対する恨みだった。
宮路家に残された遺産のすべてを準司に継がせること、それが貧乏で苦労をかけた息子に対して見せられる唯一の誠意なのだ、と話す姿を見て、準司は心の底から恐怖を覚えたとのことだった。
準司は有らん限りの言葉で母を責め、その場で絶縁を言い渡したらしい。
母はそれでも準司のためにやったことだと言って聞かなかったが、それから準司はすぐに勤めていた会社を辞め、別の土地へと引っ越して母との縁を完全に断ち切った。
しかし、ひとつだけ大きな不安が残ったそうだ。
宮路家に残された遺産のすべて。
これはつまり、姉が相続した遺産も含まれるのではないか。
もし姉が結婚した場合はその配偶者が遺産を受け継ぐことになるため、母が姉を殺すとしたら結婚前を狙うだろう。
もし婚約などしたならばすぐにでも手を下すはずだし、母はすでに姉の居所を突き止めており、殺害のチャンスを窺っているかもしれない。
それに気づいた準司は親戚の伝手を辿り、慌てて私に連絡を寄越したということだった。
私が抱えていた恐怖と謎がすべて一本の糸で繋がるのと同時に、知らぬ間に自分が命の危険に晒されていたことに戦慄を覚えずにはいられなかった。
準司からは身辺に気をつけること、遺産と婚約者のことを他人に話さないこと、すぐにその街から引っ越すことを指示された。
あまりの情報の多さにぐったりとした私は、また連絡する、と言い残して店を出てゆく準司からそこでようやく解放された。
目を開けると変わらず駿河湾は美しく輝いていた。
この街を離れろと言われても、ここは私が住んで良かったと初めて思えた場所なのだ。
しかし、命の危険が迫っているという可能性も無視することはできない。
苛立ちを紛らすようにして大きくかぶりを振り、ラテを流し込んだ。
私はこの街の魚が、野菜が、雰囲気が、街並みが、人が好きだ。
つまるところ、私は絶対にこの街を離れたくないのだ。
会計を済ませた私は車の中でシートを倒し、低い天井を見上げた。
こんなに言葉にできない感情を抱いたことが過去にあっただろうか。
ふらふらと揺蕩っては何かの実像を結びそうになる曖昧な思いは、私の心からはみ出して今やこの車の内側を隙間なく満たしているようだった。
こんなとき、誰かが側にいてくれたら。
婚約者の顔が浮かぶ。
彼にならすべてを話せそうだが、今日聞いたことは少なくともプロポーズされた翌週に言うべき内容ではない。
そうなると。
次に浮かんだマドレーヌという言葉に私は思わず吹き出す。
そうだ、いたじゃないか。
今日のことに触れなくとも、つまらない話題で笑い合える友達が。
私はシートを起こし、両手で軽く頬を張る。
なんだか少し気が楽になったのか、先ほどよりも駿河湾が美しく見えた。
エンジンをかけ、私はアイスラテの納まった腹をぽんぽんと軽く二度叩く。
「もう少しぐらい入るよね」
私は鼻歌まじりでスマホを取り出し、佐伯さんにお茶の誘いを入れた。
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