よう帰ってきた

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よう帰ってきた

 列車は港に沿って敷かれた線路に入り、そこに大きくて立派なホテルが見えてくると、更に速度を抑えた。そして、ゆっくりとブレーキをかけて停止する。 # キュウ、キュキュウーウウウ、シュシュシュウー “S駅~、S駅に到着しました、S駅~、S駅~”  車窓から港が見える。何の意味もないようであるが、実は違う。  Y町の港は東の国々へ。此処は、西の国々への玄関。朝鮮や台湾、中国へ向かう船もある。宮本や海堂達も、此処から乗ったのだろうか。 ‘成し遂げた個人として認められること、試されている実感があることこそ、私にとって価値があるのです。’ 尚子は、海堂が語っていた熱い言葉の数々を思い出していた。 『海堂さん、私の舞踏の力を理解し、夢を託して頂いた。でもそれも、夫、ホセを失ってしまい二度と出来なくなりました。私も海堂さんの様な強い意志を持った女性であれば、独りでも新たな目標を求めて突き進んで行くことが出来たのかもしれません。この今の混乱した時代が終わるまでは、静かに父の元で尚正と暮らしてまいります。』 「お母さん。みんな、降りて行くよ。」  尚正の言葉に、回想で虚ろだった意識が現実に戻った。 「あっ、もう降りないとね。」  荷物を持って、少し慌ててしまった。尚正を連れて通路を歩いて行く。すると乗降口に、乗客に挨拶をしている車掌が立っていた。  それは新田であった。 「新田様。お手紙読みました。朝食まで賄っていただいて、申し訳ありません。」 「いえいえ、私の方こそ。兄貴、いや北畠様も、退屈な役人の出張だったので、楽しく過ごせたことを感謝してましたよ。また会える日を楽しみにしています。」 「新田様も、お元気で。」  尚正も、別れの言葉を口にした。 「髭のないおじさん、さようなら。」 「あはは、次に会うときも、髭無しでないといけないね、尚君も元気でね。」  そして新田は、2人に対して深々と一礼し、別れの挨拶をした。すると尚正が、頭を垂れている新田の顔の前に、手を差し出した。 「おじさん、さよなら。」  これには、尚子も新田も少し驚いた。尚子やホセ以外に、今まで自分から触れようとすることはなかったからだ。新田はすっかり感心した様子で、改めて笑顔で尚正の前に手を差し出した。そっと握ると、小さくても温かい心が伝わってくる。 「尚正君。これからお母さんと一緒に元気に暮らしていくんだよ。そして、沢山の人達と友達になるんだよ。大きくなったら、今度は尚君がお母さんの面倒を見るんだよ。」 「うん。」 「約束だよ。」 「うん、やくそく、やくそく。」  次第に成長していく尚正の姿が、微笑ましかった。そして、少し頼もしく見えていた。 「それでは、尚子様。僕はこれで執務(しつむ)に戻りますので、失礼致します。」  新田は、隣の車両へと歩いて行った。  尚子はもう一度、新田の後ろ姿にお辞儀をして、尚正と車両を降りていく。列車が到着して時間が経っていたので、ホームの人影は疎らである。 # ヒュウウウウ・・・  港からの秋風が、構内にも流れていた。その風は、身体にもう既に寒さを感じる。冬が近いことを伝えている。  改札へと向かって行く母子。新田は、隣の車両の窓から温かい眼差しで見送っていた。 『お元気で・・・今までのことが、貴方達にとってどのような人生であったにしろ、そこからまた新たな旅が始まるのですね。幸福をお祈りしています。』  やがて母子の姿は、駅の奥へと見えなくなっていった。歩いている途中、尚子は駅を見上げていた。そして、新田と同じ様にお互いの幸運を祈っていた。  三角屋根の煉瓦の立派な駅舎。駅舎の向こうには、この地域一番、3階建の高級ホテルの一角が覗いて見える。c2a6dc39-ded8-49c1-8963-9de2ca0a4cb1 『昔と同じだわ。この駅は少しも変わっていない、でも、私は違う。父さんに無理を言って上京した私、今此処に子供を連れて戻ってきた。この駅の改札は、私のこれまでに一つの区切りを付けさせているよう・・・そうなんだわ、もう、戻ることは出来ない。兼次伯父様、今まで頼ってばかりでごめんなさい、これからは私達だけでの生きて行く道のりになるのですね。ホセ、私を見守っていて、さあ、尚正、私と行きましょうね。』  尚子は、改札の駅員に切符を渡して、ゲートを通過した。  すると、大きな声が、待合所の方から聞こえてきた。 「おーい、来た来た、長旅で疲れたろう、よう帰ってきた。」 「尚子ちゃん、本当に、よう帰ってきたばいね。」 『えっ!』  尚子は、声のする方に顔を向けた。そこには、上京する時この駅で見送った同じ者達がそこに立っていたのだ。  すると十年前に、希望に胸を膨らませ、この改札を抜けた若い娘の姿が、鮮やかに甦(よみがえ)る。不安と憂いの心細さに怯え切っていた心が温められ安らいでいく。たちまち尚子は、涙が溢れてしまった。待合所にいる2人とは、父、尚佐と幼馴染の大輔だった。 「お父さん、大ちゃん、ただ今帰りました。」 「尚子ちゃん、尚正君、お帰り。ほらほら、その大荷物ば渡しんしゃい、重たかところ、よう持って来たね。」
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