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才人さんに話しかけられたと思い、咄嗟に会心の笑顔を作った。だが、目の前にいたのは、牛のような顔をした気色悪いおじさんだった。
「な、何ですか……?」
肌がぞわっと寒くなった。何この牛、受け付けないほどキモイんだけど!
「キミ可愛いネ。これぐらいでどうかな」
牛が右手の指を五本立てた。五万円って意味だろう。ありえないから! いくら経験したいって言っても、私のこれは売り物じゃないし! 不本意でも二十年守ってきたものなんだ。こんな牛のエサにするために育ててきたわけじゃない!
「そ、そういうの私、しないので……。どうぞ、他をあたってください……」
声がかすれた。て言うか、すごい怖い。私の日常でこんなことがあるんだ。牛の目が、身体を凍り付かせる。手や足が震えちゃう。
「じゃあもう二つ三つ足そうか。キミならそれぐらいの価値はあるよ」
誰か、助けて──っ! 叫びそうになったけど、声がまったく出なかった。どうやら私は、自分で思うよりもアクシデントに弱いみたいだ。
万事休すと思ったそのとき、カツカツとした革靴の音とともに、
「おい、変態野郎。そこらへんでやめとけよ」
なんと才人さんの声が聞こえた。私は顔を上げた。目から冷たい涙が零れ落ちた。
「んあ、何だ若造、客に向かって何つった!?」
牛が才人さんの胸ぐらを掴む。水色のネクタイがぐちゃぐちゃにされた。でも才人さんは、何ら臆すことなく語勢を強めて言った。
「おまえみたいな変態を客とは呼べねえよ。客は別に偉かないんだ。こっちは対価として空間と飲食とサービスを提供してる。分かるか、ギブ・アンド・テイクなんだよ。勘違いしてるやつが多いが、客が店に求めるものは、店が客に求めているものでもある。最低限のマナーも守れないやつは、その時点で客じゃない。ましてや、他の客に迷惑をかけるなんざ許されない。とっとと出ていけ。それとも、スジ者を呼んでやろうか」
相手を射抜くような鋭い眼光だった。才人さんが喧嘩強いとは思えない。人を殴ったことなんてなさそうな手だ。でも、反論さえ許さないという厳しい雰囲気で、牛を睨みつけている。それに怯んだ牛は、せめてもの反撃で言った。
「ネットに書き込んでやるからな! こんな店は潰れてしまえ!!」
ドン、と才人さんを突き押し、足早に去ろうとする。それを才人さんが慧敏に穿った。
「金を払ってから帰れよ。それから、近日中にネットで中傷があったら警察に言う。おまえの顔は覚えた。防犯カメラもおまえを撮っている。捕まる覚悟があるなら好きにしろ。ついでに言っておくと、うちの店は滅多なことじゃ中傷されない。接客において問題を起こしたこともない。つまり、犯人はおまえしかいないってことだ。おまえが何か書き込めば、店は裁判を起こすことも辞さない。おまえは自由だ。但し、こちらは決して示談には応じない。大きなリスクを背負いながらでも書きたいのなら好きにしろ」
牛が顔を真っ赤にした。相当怒っている。でも、才人さんは正論しか言っていない。鮮やかな一本勝ちだ。あの牛は怒りに悶えながら、何もできやしないと思う。他のお店や人に迷惑をかけないか心配だけど、それは私の知ったことじゃない。
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