終章 11 ただいま  <完>

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終章 11 ただいま  <完>

「……さん! お母さん!!」 「目を開けてよ! お母さんてば!!」 すぐ近くで大きな声が聞こえてくる。 う〜ん……一体何だって言うのだろう? ようやく役目も終えて……天に召されると思っていたのに……。 「お母さんてばっ!!」 「あまり大きな声を出さないで下さい。患者さんの傷に触りますから」 女性の声が嗜める。 え……? 患者……? その声に、頭の中にかかっていた霞のようなものが徐々に晴れていく。 「う……」 重たい瞼を何とか開けると、そこには涙で目を真っ赤にさせた2人の子供……葵と倫の姿があった。 「え……? あ、葵……? り……倫……?」 どうやら私の口元には酸素吸入があてられているのか、うまく口を動かすことが出来ない。 「お母さん!?」 「目が覚めたの!?」 2人は私が言葉を出すと、ますます目から涙を溢れさす。すると白衣を着た男性が私に声をかけてきた。 「目が覚めたのですね? 良かったです。橋本さん、覚えていらっしゃいますか? あなたは交通事故に遭い、大怪我を負ったのですよ?」 「交……通……事故……?」 そうだ、忘れるはずもない。私はあの事故で命を落として……クラウディアとして回帰して……寿命を終えたはず……。 なのに、死んでいなかった? 私はぼんやりした頭で男性医師を見つめ……驚いた。 似ている。 この男性医師は……ユダの面影を宿していたのだ。 「ユ……ダ……?」 「あ? この名札をご覧になったのですね。湯田と書いて、ユタという名字です。橋本さんを執刀した医師ですよ」 湯田先生は笑みを浮かべながら私に挨拶してきた。 「……」 信じられない思いで先生を見つめると、倫が枕元に近付き、涙声で謝ってきた。 「ご、ごめん……お、俺が……駅までお母さんに車で送ってもらったから……お母さんは事故に遭って……」 「倫……」 「倫のせいだけじゃないわ! わ、私だってお母さんに乗せてもらったんだから……! ご、ごめんなさい! 今度から私、お母さんの手伝いちゃんとする! だ、だから……長生きしてよ!」 そして葵は再びボロボロと涙をこぼす。 「葵……倫……ごめん……ね……心配……かけさせて……」 それだけ話すのが精一杯だった。すると湯田先生が子どもたちに声をかける。 「お母さんの目が覚めて安心したでしょう? 後は休ませてあげましょう」 「はい……」 「分かりました……」 2人は返事をすると、看護師に連れられて病室を後にした。そして病室に残されたのは私と湯田先生の2人きりとなった。 「では橋本さんの目が覚めたことで、経緯を説明していきますね」 先生はタブレットを見ながら、説明を始めた。 あのとき、交通事故に遭って車の下敷きになった私をすぐに運転手や周囲にいた人々が救出に向かってくれた。 救急車も幸いなことにすぐ到着し、病院に救急搬送された私はそのまま手術を受けることになった。 持っていた免許証から私の身元が割り出され、子どもたちに連絡が行き、更に夫にも連絡をしたそうだ。 「主人にも……連絡……したのですか……?」 「ええ、勿論です。たいそう驚かれて、すぐに飛行機を手配してこちらに向かうと仰られていました」 「そうですか……」 仕事人間の夫でも、やはり妻の一大事には何もかも放り出せるものなのだ。 その後は私の怪我の状況や、どの様な手術がなされたのか説明を受けたが専門用語ばかりで良く理解できなかった。 「ともかく、手術は大成功でした。事故の状況はかなり酷かったのですが、橋本さんは運が良かった。思っていたよりはずっと怪我の状況が軽かったのです。これはまさに奇跡ですよ。普通に考えればありえないことです」 湯田先生は興奮気味だったが……今の私にはなんとなく理解できる。 ひょっとすると、この世界で私は無意識に何らかの不思議な力を発動したのではないだろうか? 何しろ、私は錬金術師だったのだから。 「先生……本当に……ありがとうございます……」 「いいえ、お礼には及びません。患者様の命を救うのが我々医者の役目ですから」 その時―― 『ここですか!? ここに妻が入院しているのですか!?』 扉の外で声が響き渡った。 あ……あの声は……。 「もしかすると、ご主人がいらしたのかもしれませんね」 湯田先生は扉を開けに向かった。 扉の開く音と同時に先生の声が聞こえてくる。 「橋本恵さんのご主人ですね?」 「はい、そうです」 「先程目が覚めたところです。どうぞお入り下さい。私は一度席を外しますので」 「分かりました」 扉が閉まる音が聞こえると、足音が近づいてくる。 「恵! 無事で本当に良かった……!」 私を心配そうに覗き込む夫は……アルベルトの面差しに何処か似ていた―― ****  あの事故から2ヶ月が経過していた。今日は私が病院を退院する日だった。 「先生、どうも色々お世話になりました」 病室で夫が湯田先生に深々と頭を下げる。 「いいえ、お元気になられて本当に良かったです。では次回からは外来で別の医師が担当することになりますので」 ユダ……基い、湯田先生はニコニコしながら夫と私に話しかける。 こんなに愛想がいいなんて……あの世界のユダとは大違いだ。 「橋本さん。今まで治療とリハビリを良く頑張りましたね」 湯田先生が私に話しかけてきた。 「先生のお陰です。本当にありがとうございました」 私は再度、湯田先生にお礼を述べ……夫と2人で病室を後にした―― **** 「あなた、仕事はどうしたの?」 車椅子を押して歩く夫に尋ねた。 「そんなの休みを取ったに決まっているだろう? 何しろ恵の退院日なのだから」 「だけど……忙しいのでしょう? それに九州からわざわざ来るなんて……」 夫は九州に単身赴任中だった。 「そのことだけど……実は異動願いを出したんだよ。妻が交通事故に遭って大変なので、戻して欲しいって」 「え? そうだったの?」 そんな話は初耳だ。 「これでも会社では役立っているからな。すぐに申し出を聞き入れてくれたよ。それに当分の間は在宅勤務になる。だから家事のことは心配しなくて大丈夫だから。葵に倫も今、一生懸命家の仕事を手伝ってくれているよ」 「そうだったのね……」 いつまでも母親任せだった、あの子どもたちが……。 **** 車椅子で駐車場に到着すると、夫が車を開けた。 「よし、それじゃ乗ろうか」 そして何を考えているのか、突然夫が私を車椅子から抱き上げた。 「あ、あなた! 何をするの!?」 「何って……車に乗せるために担ぎ上げたんだが……」 そして夫はじっと私を見つめる。 「……妙だな……」 「な、何が妙なの?」 「恵を抱き上げるのはこれが初めてのはずなのに……何故、懐かしい気がするんだろう? ひょっとして以前にもこんなことしたか? 俺が忘れているだけなのか?」 首を傾げる夫。 その仕草が……彼、アルベルトに重なる。私には分かっている。夫とアルベルトが同一人物だということが。 ただ残念なことに、夫にはアルベルトの記憶は残っていないけれども。 きっと、あの世界で錬金術師の力をすべて使い切ってしまったからではないだろうか? 「そうね。忘れているだけかもね?」 「ええ!? そ、それはまずいな……自分の記憶力に不安を感じるよ」 「大丈夫。あなたが例え忘れてしまっても……私がずっと覚えているから」 夫は不思議そうな顔で私を見つめていたが、すぐに笑顔になる。 「そうか? ならこれから先もずっとよろしく」 「ええ。あなた」 そして夫は私を助手席に乗せて、扉を閉めると自分も車に乗り込んだ。 「それじゃ……俺たちの家に帰ろうか?」 「ええ、帰りましょう」 そう、私は……帰ってきたのだ。橋本恵として。 愛する夫と子どもたちのいる、この掛け替えのない日本に。 窓から見える懐かしい景色を見つめながら心の中で私はそっと呟いた。 『ただいま』 と――
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