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 その日、私は一人酒を傾けていた。  ジメッとした空気を含み重く垂れた夏の夜。その重さから逃げるように、目に入ったバーに入ったのだと思う。 「もう少し過ごしやすかった気がするのだけれど」 「えぇ。最近は特に暑いですね」  思わずボヤいた私に、カウンターの中で店員の男が柔和に笑う。見た目は今どきの若者だが、カッチリとアイロンがかけられた白いワイシャツを着こなし、背筋をピンと伸ばして立つ姿は印象が良い。  オーセンティックな店内にも浮くことなくしっかりと馴染んでいる。 「私が子供の頃は扇風機とうちわで充分過ごせたんだよ。タンクトップに短パンで山や川を駆け回っていたんだ」 「今は空調がないと夏は越せないと言いますが、昔は過ごしやすかったのですね」  落ち着いた受け答えをする店員の声を聞きながら、瞼の裏に故郷の情景が浮かんでいた。  スコンと晴れ渡った空と蝉の声。それに、綿飴みたいな入道雲。虫取り網を持って野山を駆けまわり、疲れて縁側に転がるとよく冷えた西瓜が運ばれてくる。  暑さをリンと叩き割る風鈴の音を聞きながら、種を庭にプププと吹いていた。  明日のことを考える暇なんてないぐらい、毎日が驚きと発見の連続だった。毎日を一生懸命生きていた。目の前に見える世界が全てだったのだ。  
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