452人が本棚に入れています
本棚に追加
1
柿沼青葉は羽織ると指先しか出ない、彼には不釣り合いなほど大きめのパーカーの袖口につんっと形良い鼻先を擦りつけた。
ふわりと鼻をくすぐるのは爽やかでいてどこまでも甘く心惹かれる洋梨に似た香り。以前心地よいと感じた海を思わせる青いボトルの香水にも似て、より魅力的で堪らない深く複雑な何かが混じっているようにも感じる。
(もっともっと)
より強く薫る部分を続けて探りながら、仔犬のように鼻先を身ごろのそこここに擦り付ける。端から見たら不審極まりない仕草をみせるがどうにも止められない。ついには被っていた大きめのフード中に埋まりながら襟元を摘まんで持ち上げるとそこに鼻を埋め、路上だというのに人目をはばからず、くんか、くんかと残り香を吸い込む。
青葉は「はあ、いい匂い」と艶めかしい吐息を柔らかな唇を震わせて漏らした。
アルバイト先でしっかり者と名高い青葉の、ぱっちり大きく吊り上がり気味の目元が今はとろんと垂れ下がり、夢見心地の視線の揺らめきはまるでマタタビを嗅いだ猫のようだ。
(気持ちいい)
再び大きくその香りを吸い込んだら、ずくり、と下腹部の奥に欲を感じ、青葉はびりりっと甘い電流でも通り抜けたように小さく身震いした。
(あの人の、香りだ)
日中の日向はまだ汗ばむほどだが、夕方になると吹く涼しい風に肌寒さを感じる季節になっていた。
バイト先のアイスクリームショップ「グラッチェアイスクリーム」から駅への帰り道。
仕事中は薄日のさした曇り空だったが、青葉がバイト先のテナントの入ったショップモールの休憩室に長居している間に雨がそれなりに落ちたのだろう。路上はところどころ濡れ暗く染まって、マンホールの蓋が街灯を反射しててらてらと光っている。
青葉は日頃のせっかちなテンポの歩き方とは違い、千鳥足とまで行かない程度のややふらついた足取りで駅の方へと向かう。
身体の火照りと呼応するように赤く色づいた口元は自然とゆるみ、うっとり幸せの頂点にいるような表情とは裏腹に、青葉は人としてやってはいけないことをしてしまっている背徳感にも苛まれていた。
じつは今、バイト先のショップモールにあるテナントの共同の休憩室から、人様の上着を勝手に持ち去ってしまっているところなのだ。
もちろん見た目は派手だがアルバイトに学校の勉強にと品行方正に生きてきた青葉がこんなことをしでかしたのには訳がある。
青葉は学校が休みの土曜日は大抵朝からアルバイトに入っている。ショップモールのテナントなだけあって、複数人でシフトに入っているが、今日は青葉の後を引き継ぐべきシフトの人が大幅な遅刻をしてきたのだ。
元々頑張り屋の性格。朝からいまいちの体調をひた隠し、仕方なく帰れるはずの十四時時半を通り越してお腹がぺこぺこのまま仕事を繋ぎ続けていた。
「青葉先輩、遅れてごめんなさぁい」
遅刻した子は同じ大学の児童学科保育コースの後輩だった。彼女も青葉と同じくオメガ性を持っている。青葉の通う学科はその特性上、他の学科より女子学生が多い。その中には例年多くはないが一定数オメガの学生もいる。この「グラッチェアイス」は特にオメガの雇用にも理解がある企業として知られている。青葉はつけていないが制服と同じ色のピンクや青のうなじ保護用のチョーカーまで望めば支給されるほどだ。
「リノ、体調大丈夫なのか?」
「発情期は昨日終わったんで、そっちはなんとか……。でも彼が放してくれなくてぇ」
彼女は高校時代からの彼氏という番持ちだ。青葉に迷惑をかけたくないと、発情期が終わったばかりの体力が低下した時期に無理を通してバイトに来たらしい。普段は若者に人気のブランドとコラボしたこの店の制服が抜群に似合う闊達な美少女だが、今日はどこか気だるげで婀娜っぽい雰囲気を纏い、同じオメガの青葉から見ても艶美すぎて目のやり場に困ってしまう。
(こりゃ、彼氏も外に出したくないのわかるよな)
「無理しちゃダメだぞ」
「青葉先輩、いつも優しい。ありがとうございます」
「やーん。リノちゃん、顔がエッチぃ。発情期明けってお肌艶々うるうるでほんと綺麗だよね~。オメガ女子マジ羨ましい。ねえねえ? 盛り上がっちゃったの?」
お客さんがいないのをいいことに、一緒に勤務していた同い年の女子店員が隣りに青葉がいるのに明け透けな会話を仕掛けてくる。彼女たちの中でオメガと知られている時点で青葉は男性とみなされていないのだ。
そのくせ力仕事などは頼ってくるから、何だか複雑な気分でもあるが、青葉は元より人から頼られるのは嫌いじゃない。そしてガールズトークも、元々お洒落が大好きでユニセックスな服もリップを引くのも、アクセサリーで着飾るのもなんら抵抗がない。自然と二人の話にも参加できるのだ。
「あー。盛り上がったっていうかぁ。私、あんまり覚えてないけど、巣作りしちゃったみたいで、そしたら彼氏がぁ、すごく興奮しちゃって……」
「ええ、あの伝説の『オメガの巣作り』ってやつ、あれ本当にやるの?」
「なんか、ドラマとかでありきたりだけどぉ、彼の洗濯物とか、持ち物とか。いつも二人で寝てる部屋のベッドにね、積み重ねて。普通だったらさあ、汚れものとかいくら、大好きなあっくんのでも、流石に引くけど。あ、でもあっくんはいつもいい匂いがするけど、その時はぁ。なんかいつもより沢山、いい匂いがする、きらきらの宝物みたいにみえるんだぁ」
「あれってさ、よっぽど相性のいいカップルじゃないとやらないんでしょ?」
「ふふ。あっくんは小さい頃から、リノの王子様だもん」
「うわ、また惚気られた」
高校生で番になるなんてかなりお互い覚悟がないとできるものじゃないと思う。そんなことをさらりとできたリノの胆力は青葉も見習いたいところだ。
オメガが愛する番や意中のアルファの持ち物(大抵は衣服)なんかを積み上げて作る巣作り。
映画やドラマでもよく見かけるロマンチックな題材だけれど、実際それを行っているオメガから体験談を聞くのは稀なことだ。なにしろオメガは数が少ない。番のいない青葉は内心ほんのり憧れてはいるが、勿論本番の巣など作ったことがない。
自分より年下の少女が美しく上気した頬をしてうっとり話しているのが羨ましいやら、ちょっと恥ずかしいやら。
「青葉先輩はありますかぁ? 巣作りしたこと」
急に自分に話しが振られたので青葉は慌ててペーパーを折る手を止めた。
「え……。俺、か。ないないない! ベータの女の子としか付き合ったことないし。番いないの知ってるだろ?」
「番じゃなくても巣作りする人もいるんだって~。相手のことがすごく好きだったら。でも意外! 先輩すんごく美人だから、経験豊富そうだと思ってたぁ。髪の毛ピンク紫だし」
「耳、ピアスばちくそ開いてるし」
「ピアスと髪色、関係ないから」
「え! 青葉君はてっきり彼氏いるのかと思ってた。ほら、こないだ、あっちの店のお兄さんといい感じだったし、あの人絶対アルファでしょ?」
この間から詮索され続けていた噂をまた蒸し返されて、青葉は長い睫毛を伏せ困ってしまう。
そんな様子が女子二人には「意外とピュア」と可愛くて堪らないと思われているなど知る由もない。
「違うって、あれは借りた傘を返して……」
「それでデートに誘われたんでしょ? 知ってるんだからね。アヤに相談してたでしょ? なんかイイ感じのお店教えて欲しいって聞いてたの。週末行くんでしょ?」
「あーもう、相談しにくいなあ! みんな口軽すぎなんだけど」
青葉は二人の勢いに押されて益々困った顔になり、綺麗な形の眉をへにょっと下げた。
最初のコメントを投稿しよう!