【番外】お飾り妻は離縁されたい。シルフィーナ一人称バージョンです。

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【番外】お飾り妻は離縁されたい。シルフィーナ一人称バージョンです。

「君を愛する事はできない」  新婚初夜に旦那様から聞かされたのはこんな台詞でした。  貴族同士の婚姻です。愛情も何もありませんでしたけれどそれでも結婚し妻となったからにはそれなりに責務を果たすつもりでした。  元々貧乏男爵家の次女のわたくしには良縁など望むべくもないとは理解しておりました。  それでも。  まさかの侯爵家、それも騎士団総長を務めるサイラス様の伴侶として望んで頂けたと知った時には父も母も手放しで喜んで。  決定的だったのが、スタンフォード侯爵家から提示された結納金の金額でした。  それもあってわたくしの希望であるとかそういったものは全く考慮されることなく、年齢が倍以上も違うことにも目を瞑り、それこそ父と同年代のサイラス様のもとに嫁ぐこととなったのです。   彼が今まで女性とそういう噂ひとつ立ったことのない堅物であるという話も。  そして、それゆえに陰で男色家ではないかと言われている事も。  事前にわたくしの耳にまで入っておりました。  ですから。  何かを期待をしていた訳では無いのです。  幸せとか、そんなものは二の次であったはずだったのです。  わたくしの人生など、嫁ぎ先の為に使う物だと割り切っていたはずでした。  女が魔法など覚えなくともいい  それが父の口癖でした。  洗礼式での魔力測定ではそれなりに高い数値が出たわたくし。  次女の分まで魔法学園に通わせる費用は捻出できないという父に言われるまま、ただただ家の仕事をして過ごしてきたわたくしにこうした縁談の話があったのも、ひとえにこの魔力量を買われたのだと思っておりました。  貴族の子の魔力量は母親の魔力量の影響を受けやすいのです。  一般的に、優秀な子を望む場合、その母親となるものにもそれなりに高い魔力が求められるのでした。  だから。 「三年でいい。今から話す条件を守ってくれさえすれば、あとは君の好きにすればいい」  こんなことを言われるとは思ってもいなくて。  サイラス様は初夜の寝室で扉の前に立ったまま、そう話し始め。  そして一通りの条件とやらを述べたのち、部屋を出て行ったのでした。  新婚初夜です。  本当に、わたくしが何かを期待していた訳ではないのです。  それでも、ですよ?  妻として侯爵家に嫁いできた身としてまさか世継ぎを残す義務をも課されないとは思わないじゃ無いですか。  もちろんわたくしにそんな経験があるわけではありません。  それでもです。  こんなふうに嫁ぐ事になって、乳母のミーシャから色々教えて貰って。  初夜におこなわれる事についてはレクチャーを受けて、覚悟してきたのです。  自由な恋愛など許される立場ではなかったわたくしです。  自分の結婚相手など、お父様が決めてくる物だとそう言い含められてきたのです。  男性とそんな行為に及ぶ事も、想像したこともありませんでした。  それでも、です。  いくらなんでもあんまりじゃないでしょうか。  わたくしの覚悟は、どうすれば?  恥ずかしさも堪えてこうして待っていたのに。  はあ。とおもむろにため息をついたわたくし。  ベッドにしゃがみ込んで手に取った枕をもうとっくに誰も居なくなった入り口ドアに向けて投げつけて。  そのままボスンとお布団に潜り込んで目を瞑る。  この覚悟とドキドキで熱っていた体をどうすればいいというのか。  頭は悲しみとやるせない怒りとで冷めてしまいましたけど、それでも。  体を丸め、布団を被ったまま寝てしまおうと努力しましたが、結局その晩は一睡もできませんでした。  悔し涙が頬を濡らして。  陽の光が部屋に差し込み朝になったことがわかった後も、わたくしはそのまま体を起こすことができずにいました。  コンコン、と、ノックの音。 「どうぞ」  お布団の中からそう返事をします。こんな泣き腫らした顔を見られるのは恥ずかしいですが、こんな時間にお部屋に来るのはこのお屋敷の侍女くらいでしょうか。  旦那様の指示でわたくしを起こしにきたのでしょう。 「おはようございます奥様。本日より貴女様付きの侍女となりましたリーファでございます。以後お見知り置きくださいませ」  しゃんとした黒のAラインのお仕着せに身を包み、背筋をピンと張ってお辞儀をするその姿はとても綺麗で。身分とかそういうの、もう頭の中でどうかなってしまうような気がして思わず見惚れてしまい。 「リーファさん、これからよろしくお願いします」  お布団の中からでしたがそう挨拶しました。 「奥様? 奥様と(わたくし)では身分が違います。そのような言葉遣いは無用に願います。どうかリーファと呼び捨ててくださいませ」  はうう。そんなこと言われても。  わたくしの実家では貧乏だったせいかおうちの家事は乳母のミーシャと執事のグレイマンが取り仕切っているだけで、ほぼほぼ他に使用人などいなくって。  自分の身の回りどころかたいていのことは自分でするのが当たり前で。  わたくしが物心ついてからというもの後継となるべく育てられてきたお姉さまとは違い次女のわたくしはミーシャと共におうちの雑用仕事を一手に賄っておりました。  まあミーシャはミーシャ、グレイマンはグレイマンって結構親しみを込めてそう呼んでいましたけど初対面の方をいきなり呼び捨てするのには少しだけ抵抗があります。  それに。 「ええと、リーファ、は、ずっとこちらの侯爵家の使用人なのですか?」 「そういうわけでもございません、(わたくし)はこちらスタンフォード侯爵家とは遠縁にあたるハシュタルト子爵家の四女でございます。奥様がいらっしゃる事になりましてこちらにてお世話になることとなりました」  え?  それじゃぁ。 「はう、ではわたくしなんかよりよっぽど高い身分じゃありませんか」  貧乏男爵家なんか貴族としてはほんと最下位だから。 「いえ。奥様はもうすでにスタンフォード侯爵夫人なのでございますよ? 気持ちを切り替えて頂かなければ(わたくし)どもが困ります」  ううう。  そう言いくるめられ身の回りの世話をされたのち朝食を頂く食堂へと案内されました。  泣き腫らした目は蒸しタオルを当てられ手当され、その後たっぷりとお化粧が施されたせいか鏡で見てもわからなくなりました。  少しは美しく見えるでしょうか?  いえ、きっとわたくしなどここにいるリーファさんよりも劣るに違いありません。  では何故?  食堂で。  見目麗しいスタンフォード侯爵サイラス様と朝食をご一緒しながら。  わたくしはどうしても、自分の中にある劣等感を拭いきれずにいました。  だって。  だって。  三年間だけの契約結婚であるならどうして?  お飾りでいればいいだけであれば何故?  それはここにいるリーファさんではなしにわたくしだったのでしょう。  なぜわたくしに白羽の矢が立ったのでしょうか。  ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎  旦那様がおはなしされた条件というのは以下の三つです。  朝食は可能な限り一緒に摂ること。  社交には同伴すること。  表向きにはこの結婚が契約結婚であるということを秘密にすること。     三年後には君を自由にするから。  とそれだけです。  身体の関係は求めないし、愛することもできないけれど、と、そう付け加えられました。  要するにただのお飾り妻です。  詳しい事情はお話ししてくださいませんでしたけれど、そこは暗に聞くなとおっしゃっているような壁を感じました。  わたくし自身がどう過ごせばいいかとかそういったことも一切条件にありませんでしたし、それこそ浪費をするなとか浮気をするなとかそういった事も言われてはおりません。  もちろん、わたくしとしてもお飾りならお飾りでしっかりと努めようとは思いますし、浪費や不貞を働く気などはございません。  そんなもの、流石にプライドが許しませんから。  ですが。  であればなおさら何故わたくしであったのかがわからないのです。  身近にリーファさんのような方がいらっしゃるならなおさらです。  いや、なまじリーファさんが遠縁であるから、情が移るから、ダメなのでしょうか?  それならそれでわたくしの事は人間扱いされていないような気がして、やっぱり落ち込みます。  それでも。  もしかしたらあと数年もすればわたくしのこともちゃんと見て下さるようになるのでしょうか?  ああ、毎朝お食事をご一緒しているときは、本当に優しい瞳でわたくしを見てくださっています。  家人の前ですから、演技なのかもしれません。  でも、それでも。  あの優しい瞳は、わたくしがこの三年をここで過ごすためにとても助けになりました。  ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ 「まあ。シャルル様は絵がお上手なのね」 「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」  頬を染めそう答えるシャルル様はロックフェラー公爵の末の御子息でサイラス様の妹君エヴァンジェリン様の御子。  本日はエヴァンジェリン様とご一緒にお見えになって、お母様がサイラス様とご用事を済ませている間わたくしとこうしてお絵描きをしながら待っているのでした。  ロックフェラー公爵には四人の御子息がいらっしゃるのだけど上三人は最初の奥様の御子でこの子だけ後妻のエヴァ様の御子なのだけれど、どうやら公爵はこのシャルル様を溺愛しているらしいのです。  まあこれだけ可愛らしい御子ならさもありなんと思うのだけど。  それでも跡目はもう長男のジークヴァルド様が継ぐのは確定していらっしゃるらしく、公爵はこのシャルル様の行末を大層ご案じなさっているのだとか。  この春には彼も12歳となる。  学園初等科を卒業し貴族社会の仲間入りの最初の一歩となるお歳になられるのです。  次男様は子爵位を賜りジーク様の補佐をなされるそうだし三男様は他家に婿養子に入る事が決まっている。  あとはこのシャルル様をどうするかで頭を悩ましているそうで。  ちょうどわたくしが旦那様と契約したあの三年の期限もこの春に来ようとしています。  もしかして。  そう思わない事もないけれど、わたくしが口を出すことでもないので黙っているけれど。  もしかしてサイラス様、このシャルル様に侯爵位を継がせるおつもりなのではないのかしら?  それならばあの三年という期限の意味もわかる。  結婚してもご自身に御子ができないのであれば、そういう選択肢をとっても世間的にも納得させられるだろうし。 (独身のままであればあれこれうるさく言われる事もあっただろうけれど)  まあでも、それならそれで。  そういう事ならそうと教えてくださってもよかったのに。  そう恨み言も言いたくなります。  この三年間。  わたくしはそれなりにしっかりと侯爵夫人の役割を果たせたと自負しています。  社交の場においてもそつなくこなし、お屋敷の中のことについてもしっかりと采配を振るえるようになりました。  領地の経営についても騎士団のお仕事でお忙しい旦那様に代わりしっかりと目配せできています。  まあその辺は貧乏といえども実家の男爵領の采配をグレイマンに教えて貰いながらこなしていましたから慣れていたのもありますけど。  そつなくこなすと旦那様が優しく褒めてくださいました。  それがとても嬉しくて。  頑張ったのです。わたくし。 「お待たせしました。シャルル、帰りますよ」 「お母様。私の絵を褒めていただいたのですよ」 「まあまあ。お義姉様、シャルルをみていてくださってありがとうございます」 「いえいえエヴァンジェリン様。とても楽しく過ごさせていただきましたわ。もうご用事はお済みですの?」 「ええ。まあでも兄もあれでなかなか頑固なところがありますから、お義姉様もご苦労されてらっしゃるでしょう?」 「旦那様はお優しいので。わたくしは本当に良くして頂いていますから」 「ならよかったわ。でも何かあったら(わたくし)に相談してくださいね。お力になれることもあるかもしれませんし」 「ありがとうございますエヴァンジェリン様。その時はよろしくお願いしますね」 「ええ。それではごきげんよう」 「ありがとうございますおばさま」 「シャルル様も、またいらしてくださいね」 「ええ。ぜひまた」  笑顔を振りまいて二人は帰って行った。  旦那様が見送りもせず部屋に篭ったままだったのが、ちょっと気になって。  ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎  エヴァンジェリン様が訪ねてきた翌日から、旦那様はお部屋に篭って出ていらっしゃらなくなりました。  騎士団のお仕事はお休みし、領地経営は執事のセバスさんに丸投げにして。  お身体の調子が悪いのかとお部屋にお尋ねするのですが中には入れてもらえずに。  いつも一緒に摂っていた朝食も、別々になって。  心配で心配で。  ご飯も喉を通らなくて。  契約の期日まで、後もうそんなに日にちがありません。  このままわたくしはお払い箱になるのでしょうか。  でもそうしたら。  旦那様から別れを告げられる前に自分から身を引いた方がいいかもしれませんね……。  そんなことも考えてしまいます。  十日が経ち。  流石にもう我慢ができなくなったわたくしはこっそりとお部屋に潜り込もうと決めました。  旦那様が心配なのが半分。  この自分の気持ちを何とかしたいのが半分、です。  期待をしてはいけないのは十分わかっています。  わたくしは旦那様にとってはただのお飾りの妻。  だから。  もう限界、です。  セバスさんや護衛の方々のガードを掻い潜りお部屋の前にたどり着いたわたくし。  時間は夜半もうそろそろ月が天頂に届く頃。  今夜なら、月にも力を貸してもらえそう。  こっそりと扉を開け中を覗く。  旦那様は、と。  姿が見えないからやっぱりベッドで寝ていらっしゃるのかしら?  旦那様の寝室は初めて入るので勝手がわかりませんが、それでも大体の見当をつけてお部屋の奥に進むと。  あああ。  まるでお人形のような肌の白さになった旦那様がそこに横たわっていました。  ベッドの上にはいらっしゃいましたが、お布団を羽織ってもいなくて。  血の気の引いた白さのお顔で。  まるで、命の火が消えかけているように見えて。  そんな。そんな。  旦那様。  嫌だ。  嫌だ!  嫌だ!!  死んじゃいや!  旦那様のベッドの脇に縋り付くように跪いて。  どうか神様。  わたくしはどうなってもいい。  どうか旦那様をお助けください。  お願いです。  どうか。  旦那様の手を握って。  その冷たい手に、わたくしの心のゲートからマナを注ぎ込み。  急激に溢れ出すマナに。  部屋中が光の渦に包まれて。  いつしかわたくしの意識は途切れ。  そして——  ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎  幼い頃の夢をみていた。  あれは多分、わたくしがまだ六歳なったばっかりの頃。  来年にはお姉さまと同じ王都の魔法学園に通うのだ、と、信じて疑っていなかった頃の夢だ。  夢の中でこれが夢だと自覚できる。そんな夢。 「お嬢様は魔力の量が多いのですから、きっと国随一の魔法の使い手になるのも夢ではないかもしれませんねぇ」  乳母のミーシャのそんな声が聞こえる。  赤子の頃の洗礼式の日、いかに周りの皆が驚いたのか。  父も母もそれを誇らしく話していたか、を。  何度も何度も口癖のように語ってくれたミーシャ。  マーベル男爵領にスタンピードが起こったその年。  襲いくる魔獣を食い止める為、王国騎士団が派遣され。  激しい戦いの果て、大勢の怪我人が館に運び込まれてきたのを目撃したわたくしは、心の中が激しく脈打つのを自覚して。  真っ赤な血にわたくしの魂の奥底が暴走を始めました。  魔法の使い方など何も知らなかった子供であったけれど、自分の心のゲートからマナが溢れ出すのを止めることができなくなって。  自分のマナが館中を覆ったのが自分でもわかり。  そしてどういう理屈なのかはわからなかったけれど、それで大勢の怪我人が癒されていくのを見て安堵して。  それでも嵐のように湧き出るマナを抑えることができなかったわたくしはそのまま外に出て、スタンピードの起こっている現場の森の魔だまりに惹かれるように走り出していました。  無我夢中で走って走って辿り着いた先にあった真っ黒な魔の沼。  ワラワラと溢れ出る魔獣たち。  わたくしに向かってグルルと唸るそれらは、しかしこちらを恐れるように遠巻きに距離を置いています。  これが。  これがいけないんだ。  こんなものがあるからみんなが傷つく!  暴走するマナに、感情の獣のようになってしまっていたわたくし。  溢れ出るマナが吹き荒れる嵐となって。  まず、周囲の魔獣が森ごと凍りついていく。  そして。黒く黒く漆黒にうねっていた魔の沼が、マナの嵐に溶けるように蒸発して。  それが、浄化というものだということを知ったのは、随分と大人になってからでした。  全てが終わって。  わたくしの周りに駆けつけてくる大人たち。  そして。わたくしのあまりにも強烈な魔力に、恐怖に目を見開くお父様の顔。  それがその時に覚えている最後の記憶です。  あまりにも急激に魔力を放出したわたくしは、その後しばらくマナの枯渇の影響で意識を失ってしまっていましたから。  ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎  朝日が差し込んでいることに気がつき、目が覚めました。  目の前には優しい瞳でこちらを覗き込む美麗な旦那様のお顔があり……。  えーー。わたくし旦那様のベッドの脇で意識を失ってしまっていたのでしょうか。  恥ずかしさで顔が真っ赤になるのが自分でもわかります。 「シルフィーナ。ありがとう。そして、すまなかった」  え? え?  旦那様がわたくしの名前を初めて呼んでくださいました。  ああ。  心が満たされていくのがわかります。  でも。  わたくしは身を引かなくてはなりません。  このまま。  もしこのまま三年の期限が過ぎて、お前などもういらない言われたとしたら。  たぶんわたくしの心はもちません。  きっと粉々に砕けて壊れてしまうでしょうから。  なら、自分から身をひこう。  昨夜そう決意をしたところだったのに。 「お元気になられたのでしたらよかったです。最後に少しでも旦那様のお力になれたのだったら、わたくしは幸せです」  ああ。  頬を伝って涙がぽろぽろと落ちていくのがわかります。  だめだ。  別れを切り出さなければいけないのに。  それ以上の言葉が出てこなくって。ただただ涙が溢れてどうしようもなくて。  泣いているわたくしに、ずずっと近づいてくる旦那様。  手を伸ばしてわたくしの頬に手を当てて。 「泣かせるつもりなどなかったのに。私はただ、君をあの環境から救い出したかっただけだったのだ」  わたくしの涙を拭いながら、そう優しい瞳をこちらに向ける旦那様。  だめです。それ以上優しくされたら勘違いしてしまいます。 「だめ、です。旦那様。優しくしないで……」  決意が揺らいでしまうから。 「私の命はもう尽きる寸前だった。だからせめてそれまでの間だけでも君を幸せにしてあげたかった」  え? 「余命三年と言われていたのだ。病が体の奥底を蝕み、医者はもう手の施しようがないと匙を投げた。そんな折だった。十年前のマーデン領における魔獣討伐の時に君に助けられたことを思い出したのは」 「どうしているだろう。あの恩人の可愛い天使は幸せな人生を送っているだろうか? そう思って調べて見て愕然とした。あの才能溢れる少女はろくに教育の機会も与えられず、ひたすら使用人のような仕事に明け暮れているというではないか。まだ十六歳、花も盛りの筈なのに社交界にも顔を出すこともなく」 「私は、君を救い出したかった。でももはや命の尽きることがわかっている自分ではそれは難しい。そう思い悩んだ末、せめて三年間だけでもこの侯爵家に君を迎え入れようと思ったのだ」  ああ。ああ。ああ。 「だが。私はまたしても君に助けられたようだ。君の聖なる力は私の病魔を払ってくれた。自分の体の中から悪い部分がすっかりと抜け落ちているのがわかるよ」  はう、お顔が近いです旦那様。 「愛しているよシルフィーナ。私の聖女。どうかこの先もずっと私の妻としてここにいてくれないか」  じっと。そうわたくしの目を覗き込む旦那様に。  コクリ、と、頷きます。 「わたくしも……旦那様が大好きです」  そう言葉にしたところで。  わたくしの頬に、また涙がぽろぽろ、ぽろぽろと溢れていきました。 「ありがとう。シルフィーナ」  そう囁いてゆっくりとわたくしを抱擁してくれる旦那様に。  わたくしも。  さっきまでの悲しい涙とは違います。  嬉しくっても涙は出るんだな、って。  心の中がふんわりと温かくなるのを感じて。      FIN
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