3章 遅れてきた反抗期  第2話 心配のタネ

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3章 遅れてきた反抗期  第2話 心配のタネ

 翌週になり、また金曜日が訪れる。一般的に週末の飲食店は繁盛(はんじょう)することが多いのだが、この「はなむら」も例外では無い。  仕事終わりの会社員と思しきスーツ姿のお客さまが詰め掛けるのは18時を超えるころ。茉莉奈(まりな)香澄(かすみ)(せわ)しなく、だが笑顔を忘れず立ち働く。 「茉莉奈ちゃん、生お代わりちょうだい」 「はーい。お待ちくださいね」 「こっちに(たこ)の煮付け頼むわ」 「はーい。お待ちくださいね」 「女将(おかみ)、トマトときゅうりの酢の物よろしゅう」 「はい。お待ちくださいな」  方々からご注文が入り、その度ににこやかに返事をする。飲み物を作り、料理を整え、空いた食器を回収し、とせかせか動き回る。  19時になるころにはほとんどの席が埋まり、カウンタがぽつぽつと空いているだけの状態になっていた。  1週間の疲れを「はなむら」で癒していただけるのは、本当にありがたいことだ。  大学を出てすぐに「はなむら」に入った茉莉奈は、会社勤めの経験が無い。飲食店でのアルバイト経験はあり、それは忙しくて大変なものであったが、フルタイムのお勤めと比べるのはおこがましいと思ってしまう。  責任がのしかかるお仕事というのは大変なものだろう。少しでも香澄の美味しい料理で労をねぎらっていただきたい。  そうしててきぱきと動き回り、ようやくひと段落着いたのは21時を迎えるころだった。 「ふぅ」  帰って行くお客さまをお見送りし、茉莉奈は小さく息を吐いた。店内にはまだお客さまがおられるが、小上がりが空き、カウンタ席の空きも目立ち始めている。  そのカウンタの奥で、高牧(たかまき)さんがのんびりと日本酒を傾けていた。高牧さんは生ビールを1、2杯飲まれたあと、日本酒に移られるのだ。  今日は「呉春(ごしゅん)」だった。大阪府は池田(いけだ)市が誇る銘酒だ。やや辛口の、きりっとした飲み口の日本酒である。甘みは少ないが、ふぅっと鼻に抜ける香りが深い味わいを生み出す。  「はなむら」では冷酒や冷やはグラスで提供している。ワイングラスから足を外した様な丸っこいグラスだ。口がすぼまっていることで香りが散らばらずに立ち上がるので、口を近付けるとまず芳香(ほうこう)が鼻を包む。それぞれの日本酒が持つ芳醇(ほうじゅん)な香りから味わうのである。 「なぁ、女将、茉莉奈ちゃん」 「はい?」 「なんでしょう」  高牧さんはこくりと呉春で唇を湿らし、ご自慢の口髭(くちひげ)を撫で付けながら口を開いた。 「今日金曜日やのに、雪子(ゆきこ)さんが来てはれへんみたいやのう」 「あら、そう言えば」  香澄が目を丸くして、口元を押さえた。  そうだ。忙しくてうっかりしていたが、毎週金曜日に来られる雪子さんが、今日はまだ姿を見せていないのだ。いつも高牧さんと口開けを競う様に来られるのに、もうこんな時間になってしまった。  いつもならもう「はなむら」を満喫して帰られていてもおかしく無い時間である。 「どないしはったんやろ。毎週欠かさず来てくれはるのに」  茉莉奈が不安げな声を出すと、高牧さんが「まぁまぁ」となだめる様に言う。 「たまにはそんな日もあるやろ。ほら、金曜日は息子さん家族も外食や言うてはったから、今日は一緒に行ったんかも知れんで」 「そうかも知れませんねぇ。雪子さんもたまにはお洒落なご飯食べたい時があるでしょうから」  香澄もそう言う。そうだろうか、そうだったら良いなと茉莉奈は「そうですね」と頷いた。  万が一ご病気などでお身体を悪くされていたらどうしよう、そんな想像をしてしまったのだ。悪いことは考え始めるとはまりがちになってしまう。  真澄と高牧さんの言葉は茉莉奈の不安を大きく(ぬぐ)ってくれたが、ほんの少し暗澹(あんたん)としたものがひっそりと胸中にこびりついていた。  翌週の金曜日。9月も折り返し、陽射しが少し和らいで来た様に思う。まだ湿度は高いが、吹く風が肌に気持ち良い。  今日は雪子さんは来てくれるだろうか。茉莉奈は不安を残したまま表に暖簾(のれん)を掛ける。そして左右を見ると、駅の方向から雪子さんがのんびりと歩いて来るのが見えた。 「雪子さん!」  茉莉奈はつい駆け寄ってしまう。雪子さんは茉莉奈を見て「あらまぁ」と目を細めた。 「どうしたん、そんなに慌てて」 「だって雪子さん、先週来はれへんかったから心配で」  茉莉奈が言って雪子さんの手を取ると、雪子さんはまた「あらまぁ」と、今度は目を見張った。 「何もあらへんよ。いやあったんやけど、と言うかあるんやけどね。まま、とりあえず「はなむら」に戻ろう。私も行くとこやってん」 「うん。何があったんですか?」 「行ってから話すわ。ほんまに大変なんよ〜」  雪子さんはそう言いながら、肩凝りをほぐす様に肩を揉んだ。
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