2章 跡継ぎ騒動  第1話 新鮮野菜の訪れ

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2章 跡継ぎ騒動  第1話 新鮮野菜の訪れ

 「小料理屋 はなむら」のご常連に、お父上と農家を営む寺島(てらしま)さんという青年がいる。オーダーストップも近い22時少し前、寺島さんは現れた。 「はーい茉莉奈(まりな)ちゃん! 今日も俺のためにトマト料理を作ってくれへん?」  そんな軽薄なせりふとともに。その手には真っ赤なトマトが入ったかごがあった。  黒いTシャツにブルージーンズというラフな格好だが、背が高くすらりと細身、程よい筋肉も付いているので、なかなか見栄えがする。  日々の農作業のためか薄っすらと日焼けもしていた。日焼け止めは塗っているそうだが、追い付かないのだろう。 「いらっしゃいませ、寺島さん。相変わらずですねぇ」  迎えた茉莉奈は、ついしらけた様な呆れた態度になってしまう。いつものことなので、もう慣れたものだ。  寺島農園さんを立ち上げたのは寺島さんのご祖父だ。その娘さんがお婿(むこ)さんを取って跡を継がれた。そのお婿さんが寺島さんのお父上だ。  ご祖父はご健在だが農作業は引退され、今は寺島さんとお父上のおふたりで作業をされている。  素っ気ない態度の茉莉奈であるが、寺島さんを嫌ったりしているわけでは無い。むしろ歳が近い分、距離感も近いと言える。だからこそのやりとりなのだ。 「寺島さんいらっしゃい」  香澄(かすみ)もおかしそうに微笑みながら寺島さんを迎える。 「あらぁ、立派なトマトやこと」  寺島さんがカウンタの台に置いたかごを(のぞ)き込み、香澄が華やかな声を上げた。 「家出る直前まで冷蔵庫に入れてたんで、まだ冷たいですよ。茉莉奈ちゃんに(うま)くしてもらえよお前たち〜」  寺島さんは香澄からトマトに視線を移し、まるで我が子を(いつく)しむ様な眼差しでトマトに話し掛ける。  軽い調子の寺島さんだが、農業に関してはとても真摯(しんし)に取り組んでおられる。お父上と力を合わせながら、日々汗水を流しているのだ。  そんな寺島さんは自慢の野菜をこうしてお持ちしてくれる。贔屓(ひいき)にしている小料理屋の女将である香澄と、看板娘の茉莉奈に食べて欲しいとおっしゃって。  最初は持って来てくださったお野菜をお受け取りし、そのお礼に2品ばかりお好きなおこんだてをご馳走(ちそう)していたのだが、ある日、あれは秋の頃だったか、小松菜をお持ちくださった時に、茉莉奈が提案したのだ。 「寺島さん、よろしければ持って来てくださった小松菜で、何かお作りしましょうか?」  そして茉莉奈が作った小松菜と厚揚げと卵の炒めを、寺島さんは喜んでくださったのだ。  まだ時間も早く、他にお客さまもおられたので、そう凝ったものはできなかった。だが寺島さんは「旨い! 旨い!」と食べてくださった。  それから寺島さんがお野菜を持って来てくださる時には、そのお野菜を使って何品かお作りする様になった。  寺島さんがこの時間に来られるのはそのためだ。ラストオーダーに近い時間だとお客さまの入りもご注文も落ち着いているので、茉莉奈も時間が取れるのだ。少しばかり凝ったものもお作りできる。  寺島農園さんは週に一日、お父上と交代で休日を設けている。なので寺島さんは翌日が休みの水曜日にこうして来店されるのだ。ちなみに穴を埋めているのは農業ヘルパーさんである。  寺島さんは香澄では無く、茉莉奈に作って欲しがった。 「女将の料理も天下一品やけど、俺は茉莉奈ちゃんの料理のファンやからさ〜」  しれっとそんなことをおっしゃる寺島さんだった。  いつでもへらへらと笑っている様な寺島さんだが、実際の心の内などは判らない。だが知る必要も無いだろう。茉莉奈にとって、寺島さんが大事な「はなむら」のご常連なのに変わりは無いのだ。 「あ、ほんまや。まだ冷たい」  茉莉奈がひとつ持ち上げると、ぴんと張りつつも柔らかい真っ赤なトマトの皮越しから、ひんやりと冷えた感触が伝わった。 「やろ? 楽しみやなー。茉莉奈ちゃんのトマト料理」  寺島さんはにこにこしながら、空いているカウンタ席にどかっと腰を下ろした。 「じゃあ作りますか」 「あ、茉莉奈ちゃん、その前に茉莉奈ちゃん特製メニューが欲しいわ。今日は何?」 「海老のオーロラソースです」 「お、中華やん。ええなぁ。お願いな」 「はい。かしこまりました」  茉莉奈は使わない分のトマトを冷蔵庫に入れ、調理を始める。  まずはトマト料理に取り掛かる。トマトをざく切りにし、玉ねぎは粗みじんに。スライスベーコンは細切りにして、鶏もも肉は一口大に。深さのある炒め鍋にオリーブオイルとバターを落とし、まずは玉ねぎを炒めた。  その間に香澄が寺島さんにおしぼりをふたつお出しする。この季節はおしぼりをふたつお使いいただく様になっている。一枚で汗を拭っていただくのだ。  夏真っ盛りの今日、昼間はたいそう暑かった。もうすっかり遅くなったこの時間でもその名残りは濃く、湿度も高くて走ったりしようものなら汗だって吹き出す。  寺島さんはさすがに走ったりはしていなかった様だが、それでも首筋にきらりと汗が(にじ)んでいた。  おしぼりで顔などをごしごししているのは行儀が悪いと言われるが、首筋や額をそっと拭く程度ならなんてこと無い。女性でも気にせず汗を抑えて、すっきりとして飲み物を、料理を楽しんでいただきたい。  寺島さんはおじさんの様に豪快に顔を拭い、「はぁ〜」と心地好さそうに溜め息を吐いた。 「俺もおっさんになったなぁ」  そんなことを言いながらも、まんざらでは無さそうだ。 「いややわぁ、寺島さん、まだまだお若いのに」  香澄にそんなことを言われて「いやぁ」と嬉しそうに頭を掻いている。  さて、炒めていた玉ねぎが透明になって来た。軽くお塩を振っているので、水分が出やすくなっているのだ。手早く炒めるためのこつである。  そこにみじん切りのにんにくを入れ、ふわりと香りが立って来たらベーコンと鶏もも肉を入れる。炒めて色が白く変わって来たら、フルボディの赤ワインを入れる。ここでしっかりと煮詰め、アルコール分と酸味を飛ばし、甘みを引き出してやる。  甘い香りがして来たらざく切りにしたトマトと水、顆粒(かりゅう)の無添加ブイヨンを入れる。  しっかりと全体を混ぜて、しばらく煮込む。  その間にもう一品。こちらは六等分のくし切りトマトを、さらに横半分にカットしたものを使う。  ボウルにワインビネガーとオリーブオイル、少しのお砂糖を入れて、乳化するまで泡立て器で混ぜた。  そこにトマトとみじん切りにしたブラックオリーブを入れ、混ぜて馴染ませる。  そこで海老のオーロラソースに取り掛かる。海老は仕込みの時点で(から)()いて臭みを抜き、背わたを取り除いてある。それをお塩と紹興酒(しょうこうしゅ)で下味を付け、ごま油を引いたフライパンで焼き付ける。  そこに下茹でしたさやいんげんを加え、温める程度に炒める。  味付けのオーロラソースは、マヨネーズとケチャップを一対一で合わせたものだ。双方の酸味が巧く飛ぶ様に、だが煮詰まらない様にさっと炒めてできあがりだ。  白地に濃紺で模様が描かれている器にこんもりと盛り付ける。  その頃にはくし切りトマトにもドレッシングがしっとりと沁みている。それも淡いブラウンの器にふんわりと盛った。 「はい、お待たせしました。トマトのブラックオリーブマリネと、海老のオーロラソースです」  カウンタ越しに寺島さんにお渡しする。その頃には寺島さんが注文されていた生ビールは半分ほど減っていた。 「うわ、旨そう。楽しみ!」  受け取った寺島さんは相貌(そうぼう)を崩し、さっそくお(はし)を取った。「はなむら」では樹脂製の黒いお箸を使っていただいている。  まずはトマトを大きな口に運んだ。 「旨っま! うちのトマト旨っま! ブラックオリーブと凄い合う!」  寺島さんは満足げに頬を動かす。その柔らかな表情に見ている茉莉奈もつい口元を緩めてしまう。  真っ赤に熟れた甘いトマトをまとっているのは、ベーシックなドレッシングだ。そこにブラックオリーブのアクセントが活きている。  ブラックオリーブは独特の(くせ)があるが、それが生のお野菜と良く合うのだ。癖の少ないグリーンオリーブでは無くブラックオリーブを使うことで、トマトの甘みと程よい酸味が強調される。  ほんの少し入れたお砂糖がトマトやビネガーが持つ酸味の角を取り、甘みが浮き立つのだ。  続けて寺島さんは海老のオーロラソースにお箸を伸ばす。(だいだい)色に染まった海老を口に含み、じっくりと噛み締めた。 「あ〜、これこれ! このまったりした味がええよなぁ〜」  寺島さんは言いながら、ふにゃりと目尻を下げる。  オーロラソースのマヨネーズとケチャップの比率は黄金比と言える。確実に美味しくなる組み合わせだ。それがぷりっぷりの海老に絡んでいるのだから、美味しく無いわけが無い。  この時季なので、彩りにさやいんげんを使った。さやいんげんは夏が旬だ。身がぱんぱんに張っていて、噛み締めるとざくっと心地良い歯ごたえがあり、中の小さな豆がぷちっと弾ける。  オーロラソースは海老と合わされることが多いが、海老の旨味が特にこのソースと合うのだ。海老の味わいを壊さず、風味をしっかりと残しつつも、ソースの味も主張する。良いバランスを保てる組み合わせなのだ。  (きも)はマヨネーズとケチャップを入れた後だ。火を入れすぎると煮詰まって濃くなってしまう。だがある程度は酸味を飛ばしてやりたい。この塩梅(あんばい)がなかなか難しいのである。  感覚で火から離すしか無いが、多分巧くいったと思う。少なくとも寺島さんにも、これまでにお出ししたお客さまにも好評だった。  そろそろ煮込んでいるトマトも良い頃だろう。水分が飛んでふつふつとしている。茉莉奈はそこに粗みじんにしたパセリをたっぷりと加えた。  添え物にすると遠巻きにされがちなパセリだが、実は多くの栄養素をふんだんに含んでいる。鉄やカリウムなどのミネラル分にビタミンK。そしてビタミンCはお野菜の中でもトップクラスと言われる。  ベータカロテンも豊富で、あまり聞き馴染(なじ)みの無いアビオールという精油(せいゆ)成分も蓄えている。食中毒の予防に効果的だとされているのだ。  こうして混ぜ込んでしまえば、苦手な人でも食べやすいだろう。彩りにもなって目にも鮮やかだ。  酸味を和らげるために少量のお砂糖、こく出しにトマトケチャップも少し入れ、お塩とこしょうで味を整えて、鶏肉のトマト煮込みの完成だ。  白い器にうず高く盛り付け、風味付けにオリーブオイルを少量回し掛けた。 「はい、鶏肉のトマト煮込みです。お待たせしました」  スプーンを添えて寺島さんにお渡しする。 「あ〜、これも旨そう。ありがとう」  寺島さんは笑顔を絶やさず、スプーンで鶏肉をすくうとぱくりと頬張り、うっとりと目を細めた。 「ん〜、ええねぇ。鶏肉とトマトめっちゃ合う。旨い。これ、青いの何?」 「パセリですよ」 「パセリかぁ。せやからちょっと清涼感があるんや。こうすると食いやすいな」 「でしょう?」  新鮮なトマトをふんだんに使っているが、ブイヨンのお陰で他のお野菜の風味も加味されている。それがトマトの甘みを引き上げている。  煮込み時間がそう長くは無いので、鶏もも肉はそこまで柔らかくなっていないが、その分弾力があり、肉汁が閉じこもっている。しっかりと噛み締めると口の中でエキスが弾け、トマトと合わさって風味を高める。  ブイヨンはもちろん、玉ねぎとベーコンからも旨味と甘みが染み出している。細く切ったベーコンは存在感こそ薄いが、そうして役割を果たしているのだ。  主役はトマトなので、その旨味を最大限に味わえる様にしたつもりだ。  寺島さんはいつの間にかビールジョッキを空にし、2杯目を頼まれていた。それも半分ほど減っている。  「はなむら」の味はあまり濃く無い。お酒に合うのは濃い味とされているが、ご年配のご常連も多いので、お出汁を効かせた優しい味を心掛けている。  それは茉莉奈にもしっかりと受け継がれていて、香澄が作ってくれる食事はもちろん、大学で学んだ和食の滋味(じみ)も茉莉奈の料理を形作っている。  それは素材の味を最大限活かすことに繋がる。食材を味わっていただくための手段なのだ。  寺島さんはお顔を和ませながら食事を進め、器とジョッキが空になるころには「はなむら」の閉店時間が迫っていた。 「あー旨かった! ごちそうさん!」  寺島さんは満足げに手を合わせる。表情が幸福感に満ちていた。 「はい。お口に合った様で何よりです」 「茉莉奈ちゃんが作るもんが、合わんわけ無いやん」 「ありがとうございます」  もう店内にお客さまは寺島さんだけになっていた。22時のオーダーストップを迎えると、席を立たれるお客さまも多い。閉店時間は23時だが、実際にはもう少し早く閉めることがほとんどだ。  だが寺島さんが来られるとそうはいかない。もちろん迷惑だなんて思っていない。こちらとしては新鮮な朝獲れ野菜がいただけるので大歓迎なのだ。  それに茉莉奈にとっては勉強にもなる。寺島さんは予告無く来店されるし、どんなお野菜をお持ちくださるかも判らないので、茉莉奈はアドリブでお料理をすることになる。そうなると発想力が必要になって来る。  茉莉奈の味が毎日日替わりおしながきに加わるので、そうして鍛えておけばアイデアが出やすくなるのだ。  茉莉奈は普段から様々なレシピを見て参考にすることも多いので、創作と言うにはおこがましい。だが先人のアイデアをお借りして、茉莉奈なりの料理を整えるのだ。 「今日もありがとうな。さっすが茉莉奈ちゃんや。どれも旨かった」  寺島さんが席を立ち、おあいそをする。「はなむら」ではそれぞれのお席でお会計をするのだ。 「ありがとうございました」 「ありがとうございましたー」  本日最後のお客さまとなった寺島さんを、表に出て香澄と並んで見送る。寺島さんはひらりと右手を振って背を向けた。  やがてその後ろ姿が遠くなり、茉莉奈と香澄は店内に戻った。 「さ、さっさと片付けて、私たちもトマトをいただきましょう」 「うん」  茉莉奈と香澄は、さっそく後片付けに取り掛かった。  そうして(まかな)いの時間だ。残ったひじきの煮物で混ぜご飯を作り、お豆腐でお味噌汁を作った。寺島さんのトマトはシンプルにくし切りにし、余分な味付けはしない。 「いただきます」 「いただきまーす」  テーブル席で向かい合って、茉莉奈と香澄は揃って手を合わせた。  まずはお味噌汁をすする。仕事の後の疲れた体に、お出汁と程よい塩分がじわりと染み渡る。麦味噌の香りがふわりと鼻をくすぐり、それも味わいのひとつになる。  お豆腐は定番の実だが、だからこそほっとする味だ。  そうして心を落ち着かせてから、茉莉奈はトマトにお箸を伸ばした。口に入れ噛むと、じゅわっと爽やかなジュースが溢れる。  寺島さんご自慢のトマトは、濃い赤色の見た目通り、味もとても濃かった。酸味もあるが甘みが強い。茉莉奈は「ん」と目を開いた。 「さすが寺島さんのトマト。ほんまに美味しい」 「ほんまやねぇ。寺島さんのお野菜はいつでも美味しいやんね。茉莉奈もお料理のしがいがあるんや無い?」 「むしろ本来の味を壊してしもたらどうしようって思ってしまうわ。多少のことなら大丈夫やろうけどさ。素材がええから」 「そうねぇ。寺島さん、いつも美味しそうに召し上がるしね。しかも私や無くて茉莉奈が作るのをご所望(しょもう)やものね。やるわねぇ」  やるわね? 微笑む香澄のせりふの意図が良く判らず、茉莉奈は首を傾げながら食事を進めた。
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