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はじまりの章 第1話 すばらしき景色
店内には話し声や笑い声がゆるやかに響いている。他愛の無い会話を楽しむお客さま、真剣な表情で議論を交わすお客さま、様々だ。
花村茉莉奈はカウンタ内の厨房に立ちながら、そんなお客さま方を見渡して、満足げに微笑む。
ここ「小料理屋 はなむら」は、茉莉奈と母の香澄が切り盛りする小料理屋だ。
素敵なご常連に支えられ、立ち上げから約10年、この大阪府の長居という街でお店を開けて来た。様々な思いを込めて頭を下げながら、この「はなむら」は続いて来たのである。
「茉莉奈ちゃん、生ビールお代わりちょうだい」
「はーい」
カウンタに座るご常連、ご年配の男性高牧さんが空になったジョッキを軽く掲げる。茉莉奈は元気に返事をして、高牧さんからジョッキを受け取った。
使い終わった食器は洗い物用のシンクでさっとすすぎ、棚から新しいジョッキを出す。生ビールサーバからビールを注いで、滑らかな泡を作った。
「はーい、お待たせしました」
生ビールはきめ細やかな泡が生命と言っても過言では無い。できあがったらすぐにお運びするのが鉄則だ。
「ありがとうのう」
高牧さんはにこにこと生ビールを受け取り、さっそく口を付けると、豊かに蓄えた白髪混じりの口髭が白い泡で飾られた。
「ふふ。高牧さん、お髭に泡が付いてますよ」
茉莉奈が笑顔で言うと、高牧さんは「おやおや」と苦笑しつつ、おしぼりで鼻の下を拭った。
「ふぅむ、この髭はお気に入りなんやが、こうも泡が付いてはのう。剃るかのう」
「あら、もったいないですよ。とても良くお似合いやのに」
茉莉奈が言うと、少しばかり肩を落としてしまった高牧さんが「そうかのう」と明るくなった顔を見せる。
「はい。泡なんて拭けばええんですから、いつまでもナイスミドルでいてください」
茉莉奈のせりふに、高牧さんは「はっはっは、ナイスミドルか。ハイカラやのう」とおかしそうに笑った。
「茉莉奈、小上がりさんの鯵フライ上がったで」
「はーい」
茉莉奈に声を掛けたのは香澄だ。この「小料理屋 はなむら」の女将であり、主に調理を担当している。
茉莉奈はカウンタの厨房とフロアを繋げる台に置かれた、からっと揚がった鯵フライを小上がりにお運びする。
おお振りの鰺が二尾、薄緑色の角皿に尾っぽを寄り添わせる形で盛り付けられている。彩りに素揚げしたししとうが添えられていて、目にも鮮やかだ。
「鰺フライお待たせしました」
小上がりの座卓に置くと、お客さまが「おお」と沸いた。
「これこれ。女将の揚げ物旨いんやで」
「そうなん?」
ご常連の青年尾形さんと、尾形さんに連れて来られたお友だちだった。茉莉奈が背を向けるとさっそく口にした様で、「旨っ」「ほんまや。美味しい!」の声が追い掛けて来た。茉莉奈は称賛を聞いて(そやろ、そやろ)と口角を上げる。
現在24歳の茉莉奈は、大学を卒業してからすぐにこの「はなむら」に入った。それまでパートで入ってくれていた湯ノ原雪子さんも60歳を超えて高齢になり、そろそろ隠居を、と考えていたとのことで、入れ替わりにはちょうど良かったと言える。
穏やかな性格の雪子さんの旦那さんは鬼籍に入っているが、息子さんがひとりおられる。
結婚され、実家である雪子さんの家の近くのマンションを借りて住まい、一男一女を授かった。
上の男の子が大学を卒業し就職する機に独立して、茉莉奈と雪子さんが「はなむら」を交代するタイミングで同居を持ちかけられたそうなのだ。
最初雪子さんは、お嫁さんに遠慮して辞退された。近いとは言え離れて暮らしているから巧く関係が築けている、同居してしまえばそれが壊れるかも知れない。
また将来の介護の懸念もあった。お嫁さんにはもちろん息子さんにも面倒を掛けたく無い、雪子さんはそう思っていた。
しかしこのお嫁さん、なかなかの強者だった。
「私、また仕事がしたいんです。子どもたちもやーっと手が離れましたしね」
下の女の子はその年に大学生になり、お弁当を作ることも無くなって、ずいぶん楽になった。なのでパートでも良いので、外に出たいと思ったそうだ。
「だから一緒に家事をしてくれると助かります。え? 介護?」
家事なんて、役に立てるのならなんでもするつもりだ。だが先々足腰が立たなくなったら? 痴呆症を患ったら?
そんな雪子さんの心配を、お嫁さんは「そーんなん!」と笑い飛ばした。
「手に負えんくなったら施設探しますから!」
さすがの息子さんも「ちょ、」と弱々しながら咎めたが、それで雪子さんはすっと気が楽になって、同居を受け入れ、家に招いたのだ。
言いたいことを言いながらも空気は読まれるお嫁さんと、雪子さんの関係は良好だそうだ。ご飯支度は雪子さんの役目になり、お嫁さんは「やっぱりお義母さんのご飯美味しい!」と喜んでおられるとのこと。
そんな雪子さん、「はなむら」を勇退された今は、しっかりご常連になっている。
最初はご家族のご飯をご用意してから来店されていたのだが、ここでもお嫁さんは豪快だった。
「じゃあその日は、私たちも外食しましょう」
そうして雪子さんはお嫁さんと話をした結果、週に一度、金曜日が「はなむら」の日になったのだ。
ちなみにここまで存在感の薄かった息子さんだが、いわゆる草食系に育ち、ぐいぐいと引っ張るタイプのお嫁さんの尻に敷かれているそうだ。
しかし雪子さんが見たところ、息子さんはそれを全く嫌に思っておられないのだと言う。
雪子さんの旦那さんは昔気質で、要するに亭主関白気味だったので、こんな夫婦があるのだと最初は目を丸くしたそうだ。
だが息子さんが「いやぁ」なんて言いながら楽しそうなものだから、これもありなのだなと納得されている。
今日は金曜日。雪子さんもしっかりとカウンタの一角を占めている。隣り合った高牧さんと談笑しながら、大好きな芋焼酎、赤霧島のお湯割りをちびりと傾けていた。
「赤霧島」は、宮崎県の霧島酒造さんによって造られた芋焼酎だ。九州産の紫芋ムラサキマサリと霧島連山の地下水が使われ、洗練された甘い香りが鼻から癒しを与え、飲めばすっきりとしている。お湯割りにすることで柔らかな風味になるのだ。
雪子さんは夏でもお湯割りを飲まれる。雪子さんいわく「芋焼酎はお湯割りに限る。百歩譲ってロック」だそうだ。
湯気とともに立ち上がる香りごと味わってなんぼだとおっしゃる。夏の店内はクーラーを効かすので、暑さは問題にしていないのだろう。
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