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マリアンナの告白とイアンの恋バナ
陽射しが日に日に強くなっても幽霊のあたしは汗をかかない。暑くもないし、紫外線がジリジリと肌を焼くこともない。幽霊といえば暗闇にボーッと青白い顔が浮かんでるイメージだけど、あたしは意外に血色がいい方だと思う。血色は良くても血は流れてない。
石榴の庭園を散策しながらうっすら額に汗を滲ませるナリッサの隣で、あたしはそんなことを考えていた。
石榴宮を訪れたのはナリッサが魔術師に襲われた舞踏会の日以来。石榴の木にはいつの間にか青い実がそこかしこについていて、それがまだ小さく固そうなことにホッとする。赤い石榴はユーリックがナリッサに死刑宣告したシーンを思い出すから。
「どういう風の吹き回し?」
ナリッサは木陰で立ち止まり、足元の白猫にチラッと目を向けた。護衛騎士のマリアンナも足を止め、フイと空を仰ぐけれど鳥影は見当たらない。侍女のポピーは応接間の窓を開け放ってお茶の準備を進めている。
「元気にしてるかと思って来てみただけだ」
皇族っぽい横柄さで見下ろすナリッサと、いかにも悪魔らしい尊大な態度で応じるジゼル。少女と子猫だからかどこか微笑ましい。
「また記憶がなくなってるのよ。問い詰めたくてもノードもジゼルもまったく石榴宮に寄りつかないし」
「魔塔主がここに来れないのは皇帝のせいだぞ。聞いてないのか?」
「いちおう聞いたけど」と、皇女殿下は口を尖らせた。
魔塔主が皇族の一人と懇意にするのは貴族たちの間に余計な憶測を生むとして、石榴宮への訪問を控えるよう皇帝からノードに訓告があったのはあたしたちがオクレール領に行った次の日のこと。実際にノードが懇意にしてるのはナリッサだけでなくユーリックもだけど、彼の方は上手く隠している。
というか、ノードが石榴宮を正面から訪問するようになったのはナリッサに肩入れしてることを周囲にアピールしたかったんじゃないだろうか。
ジゼルの召喚術であたしが異世界召喚された頃、ノードはナリッサがイブナリア王族の末裔だとは微塵も思ってなくて、しかも皇帝の子ではないと考えていた。銀色のオーラを発現することのない偽物皇女の行く末を憂い、彼女を守るには魔塔の管轄下で自分が保護すればいい――そんなふうにノードは思っていたのかもしれない。
本当のところはわからないけど、そのためにナリッサの魔力を増やそうとし、悪魔の召喚を行ったというのなら辻褄は合う。
ナリッサはしゃがみ込んでジゼルの頭を撫でた。
「ナリッサ、記憶のことは魔塔主から伝言を預かっている。魔力の乱れと薬の副作用による一時的なものだから心配いらない、だそうだ」
あたしが憑依した後の辻褄合わせはノードの仕事だけど、今回はあながち嘘でもない。
あの夜あたしが飲んだレムリカスは副作用で服用直前の記憶が曖昧になることがあるらしい。薬の知識があるナリッサは予想していたらしく、「わかってるわ」と細くため息を吐く。
「ノードがわたしにレムリカスを飲ませたことはイアン卿から聞いたわ。あの夜何があったのかも話してくれた。わたしが覚えてるのは馬車の中でお母さんの気配を感じたことよ」
「母親? ローズの気配を感じたのか?」
ジゼルはあたしにチラッと目をやる。はい、それはローズじゃなくてあたしです。
「ジゼルは死んだ人がどうなるか知ってる?」
「分解されて人ではなくなる」
「それは肉体の話でしょう?」
「死霊の最期までは魔塔主でもわからんだろう」
ジゼルの言葉に実感がこもってるのは、前代未聞の〝悪魔と血の契約を結んだ幽霊〟がここにいるから。でも、幽霊と呼ばれるのは平気なのに死霊と言われるとなんとなく気分が悪い。
「それにしても」
ナリッサは腕組みして憤慨した。こういう演技じみた所作は悪女っぽい。
「貴重な薬を飲んだのに、その記憶がないなんて悔しい。今度ノードに実物を見せてもらわなきゃ」
「かなり高価な薬らしいな。それだけお前の状態が酷かったってことだ。暗殺者に襲われたんだから仕方ない」
たぶん、ノードは万が一の時にあたしを即刻ナリッサの体から追い出すためレムリカスを準備してたんだと思うけど、あの苦さは二度とゴメン。
「暗殺者は魔術師と魔剣士だったらしいわね。平民出のニセモノ皇女を殺したところで暗殺者にどんな利益があるのか知らないけど、そこらへんの貴族がやったっていうより厄介払いのために陛下が差し向けたって方がよっぽどありえそうだわ」
「皇女様、それは」
大人しく控えていたマリアンナが思わずといった様子で口を挟んだ。フフッとナリッサはマリアンナの反応を面白がって笑う。
「ジゼル、マリアンナはわたしの言動を陛下に報告しなければならないのよ。以前は皇太子殿下の命でわたしの護衛騎士をしてたけど、先日の暗殺未遂事件のあと正式に陛下から命じられたらしいの」
皮肉を込めた言い回しだったが、マリアンナは「そのことですが」と神妙な面持ちでその場に跪いた。
「皇女殿下にお伝えしておきたいことがあります」
「改まって、何?」
「実は、わたしは獣人なのです」
ナリッサは目を丸くし、あたしもマリアンナが自ら正体を明かしたことに驚いた。打ち明けた本人はどこか申し訳なさそうにうつむいている。
「ベルトラン卿は皇女殿下にお話しされませんでしたか?」
「ベルトラン卿も知っているの?」
「おそらく気づいてらっしゃるのではないかと」
「気づいてるぞ」
ジゼルがあっけらかんと言う。
「ぼくがうっかり〝サル〟と呼んだからな。それで察したらしい」
「マリアンナはサルの獣人なの?」
「はい。父は普通の人間ですが、第二夫人であるわたしの母がリスザル獣人です。ユーリック殿下はわたしが獣人であることを知った上で、皇帝陛下に隠して紫蘭騎士団に迎えて下さいました。それが最近、皇女殿下の護衛騎士として相応しいか陛下直々にわたしの素性をお調べになるという話を耳にし、こちらから陛下に明かすことにしたのです。ですから、今は皇帝陛下もわたしが獣人だということを承知しておいでです」
マリアンナの緊張した声がナリッサを困惑させているようだった。長く石榴宮に閉じ込められていたとはいえ、獣人が一般的にどのような扱いを受けているかナリッサも知っている。
「ねえ、マリアンナ。わたしにも正体を明かしなさいって陛下に言われたの?」
「いえ。わたしから正体を明かしたいとユーリック殿下にお願いしました」
「どうして?」
「獣人が正体を明かせば、十中八九嫌悪の眼差しを向けられます。もし先日の襲撃のような危険な場面でナリッサ様がわたしの正体を知り、怯えさせてしまうようなことがあればナリッサ様をお守りできる自信がありません」
「そんなこと」とナリッサは軽い口調で返した。
「悪魔と仲良しのわたしが獣人に怯えると思う?」
「そうかもしれませんが、生理的に獣人を嫌悪する人はいます」
「マリーはマリーよ。わたしにとっては真面目で頼りになるお姉さんだわ。真面目過ぎていつか誰かに利用されそうで心配だけど、信頼できる騎士がそばにいてくれて心強く思ってるの。話してくれてありがとう、マリアンナ」
ナリッサが抱きしめるとマリアンナは気恥ずかしげに頬を赤く染めた。広間の窓辺にはポピーだけでなくいつの間にか執事のエンドーも立っていて、マリアンナとナリッサの様子に二人して目を細めている。
ほのぼのした雰囲気をぶち壊すように「サル」とジゼルがマリアンナを呼んだ。
「ジゼル、レディーに向かってその呼び方はどうかと思うわ」
「わたしはどのように呼ばれても構いません。むしろ〝サル〟がよいです」
「変わった女だな」
ジゼルはフンと鼻を鳴らす。
「ジゼル殿の声は治癒師ほどの魔力でも聞こえるとうかがいました。悪魔がわたしの名を口にするのをうっかり誰かに聞かれないとも限りません。〝サル〟ならわたしだと特定できませんから」
たしかに、「犬」「サル」「鳥」なら正体を知らない限り誰のことを言ってるのか分からない。
「まったく、召喚獣というのはそこまで信用ならないか?」
召喚獣が、じゃなくてジゼルが、だと思う。
「グブリア帝国では召喚術は禁忌。わたしに加勢して下さるつもりだったとしても、あの場で正体を明かす必要などなかったのに」
「お前だってナリッサに正体を明かしただろう? 明かすことが必要な時もあるんだ」
なんだかもっともらしいことを言ってるようだけど、ジゼルは熟慮の末に正体をバラしたわけじゃなく隠すのが面倒になっただけだ。
「たしかに、相手の信頼を得ようとするなら先に秘密を打ち明けることも必要なのかもしれません」
やっぱりマリアンナは真面目だなあ。
お忍びで平民街に行ったときは淡々と治癒師リーナの姉を演じていて、任務のためなら人を騙すことも殺すこともお茶の子さいさいなクールビューティーだと思っていたのに。こんなに素直だと調子の良さだけが取り柄の貴族のボンボンにつかまっちゃいそうで心配。
「ところでサル。ぼくが召喚獣だと知ってるのはおまえと皇太子、あとは犬くらいか?」
「犬?」
ナリッサが首をかしげ、マリアンナの密かな睨みにジゼルがスイーッと視線をそらした。そろそろジゼルのうっかりがスクルースと同レベルだと気づいてほしい。
「ランド殿を〝皇太子殿下の犬〟と呼ぶ無礼な輩はおりますが、ジゼル殿までそのような言い方をなさるとは」
「舞踏会のときどこぞの貴族が〝犬〟と言っていたからな、つい」
どうしてなのか、ジゼルの茶番が日に日にひどくなっている。前は憎らしいくらいしらっと嘘をついてたのに、大根役者っぷりに目を覆いたくなるほどだ。
……もしかしてあたしのせい?
嘘つくのが下手なあたしの影響でジゼルも嘘が下手になってる?
「わたしが把握している中では紫蘭騎士団副官のシュレーゼマン卿と皇太子補佐官のアルヘンソ卿の二人がジゼル殿の正体を知っています。ゾエさんとベルトラン卿も知っているそうですね」
「皇帝は知らないのか」
「皇帝陛下がご存知なら貴殿はすでにこの世界から消滅しているはずです」
お〜怖、とジゼルは身軽な跳躍でナリッサの肩に飛び乗った。
「ねえ、マリアンナ。ジゼルが召喚獣だと知りながら黙っていることも罪になるかしら? ゾエとベルトラン卿はわたしが巻き込んだようなものだけど」
ナリッサのせいじゃなくてジゼルのうっかりのせいだよ。
「責任は皇太子が負うつもりなんだろう。ぼくにこれを渡したのだから」
ジゼルは首元のリボンについた真鍮タグを前足で弾いた。
舞踏会の日の入場許可証はグブリア帝国の紋章である剣と月が描かれたタグだったのに、後日ユーリックから渡されたのは紫蘭の花のタグ。どうしてタグを変えたのか気になっていたけど、たぶんジゼルが言ったようにユーリックが責任を負うつもりなのだろう。
マリアンナが鈍く光る紫蘭の紋章を見つめて眉を寄せる。
「そもそも、どうして魔塔主様は召喚獣をナリッサ様に……」
どうやら真面目な護衛騎士殿は未だに納得がいっていないらしかった。ナリッサは彼女を立たせ、「はい」と強引にジゼルを押し付ける。ジゼルとマリアンナはぎこちなく互いを見つめた。
「あの夜も、平民街で魔獣に襲われたときも、ジゼルはノードに命令されることなくわたしを守ってくれた。それだけで十分だわ」
「魔塔主はぼくが無害だと証明したかったらしい。人間どもは召喚獣を誤解しているからな」
小説『回帰した悪女はお兄様に恋をする』では、ジゼルは〝悪魔〟だったし、ジゼル以外に悪魔は登場しなかった。クライマックスの魔獣討伐でグブリア帝国に手を貸して戦っても、最後までジゼルは〝悪魔〟だった。
「そういえば、ジゼル殿はご自分を聖魔だと主張してらっしゃると聞きました。本当なのですか?」
マリアンナのちょっと嫌味っぽい問いかけに悪魔ちゃんはムッとする。
「この愛らしい猫が悪魔に見えるというなら、おまえの目は節穴だ。偏見まみれの扱いにうんざりしているのは獣人も召喚獣も同じだろうに。自分の目で見たものを信じられないのか? ぼくがやってきたことが悪事なら悪魔、善行ならば聖魔だ」
正論のようにも思えるジゼルの主張にマリアンナが押し黙ったとき、聞き覚えのある男性の声が耳に届いた。
「いらっしゃったようだわ」
ナリッサは門に目をやり、その視線の先にはキラキラアイドルスマイルで手を振るイアン・ベルトラン。
グブリア帝国皇女を相手にまったく畏まることなく、門兵はそんな彼の態度に慣れっこのようだった。迎えに出ていたエンドーと門兵はアイコンタクトでうなずきあい、その口元には苦笑。
敷地内に通されたベルトラン公爵令息は護衛騎士オクレール卿を従え、まっすぐ石榴の庭園へと向かってくる。白猫はマリアンナの胸から飛び降り、猛ダッシュでイアンに駆け寄った。やっぱりジゼルはイアンが好きなんだなぁと思っていたら、しゃがみこんで手を出したイアンをフェイントで躱してオクレール卿の足元に着地。
「アッ、ハハ」
ナリッサが声をあげて笑い、マリアンナがゴホンと咳払いした。
「まったく素直じゃないな」
マントの騎士を見上げて鼻をひくつかせていた白猫を、イアンは後ろから抱き上げた。
ジゼルがからかっただけのように見えるけど、たぶんオクレール卿の魔力のせいだ。以前は魔力抑制マントで抑えられていた彼の魔力が、今はわずかに漏れ出している。
「ジゼル。オクレール卿の魔力、また増えてるよね」
オクレール卿のマントをこっそりめくるあたしに、ジゼルは「ニャア」と返した。オクレール卿には召喚獣であることを隠しているから仕方ない。まあ、近いうちにバレそうな気もするけど。
「イアン卿、ジゼルにフラれましたね」
ナリッサは客人を前に淑女らしい優雅なお辞儀をしたけれど、口調はずいぶん砕けている。
「久しぶりだから照れたんですよ。そうだろ、ジゼル」
指でナデナデされてゴロゴロ喉を鳴らすチョロい悪魔がここに一匹。
「ジゼルがオクレール卿に興味を持つのは当たり前だわ。治癒術の基礎を教えたくらいでマナ経路が広がるなんて、わたしも想像してなかったもの」
ナリッサの説明はジゼルに向けたものだろう。オクレール卿自身は魔力が増えた理由を既に知っているようだった。
「オクレール卿の半分でもいいから魔術の才能が欲しかったよ」
イアンはおどけて肩をすくめる。
「治癒術の基礎はオクレール卿と一緒に聞いていたはずなのに、イアン卿から魔力は感じられないわ。特別な能力が欲しいのなら、イアン卿の場合はオーラを鍛えるべきよ。あなたには銀色のオーラがあるでしょう?」
「オーラを鍛えて才能が開花したら君の兄上に殺されることになる……っと。これはトッツィ卿の前で口にすることじゃなかった。内緒で頼むよ、マリー」
気安く「マリー」と呼ばれたせいか、マリアンナはゾエみたいな能面顔になった。その反応に落胆するでもなくニヤニヤ笑ってるイアンは、やっぱり変わった性癖の持ち主だ。
「ポピーがお茶の準備をしてくれてるから座って話しましょう」
ナリッサは正面玄関からではなく庭から応接間に客人をあげた。そのことに誰も違和感を感じないくらい、イアンは石榴宮の人々と馴染んでいるようだった。
ノードに聞いた話だとイアンは暗殺未遂事件の後ユーリックと取引し、宰相の動きを伝える代わりに石榴宮への出入り許可を求めたらしい。ナリッサと彼女の元に集まる秘密共有者――ジゼルやノード、ゾエと連絡をとるためなんだろうけど、ユーリックは小説同様イアンがナリッサに恋してると勘違いしてそうだ。イアンの方はその勘違いすら計算に含めてやってそうな気がする。
そういえば、小説の回帰後ストーリーではイアンとナリッサに結婚の話が持ち上がっていた。たしか求婚はベルトラン家からで、婚約するかしないかでグダグダした展開が続き、嫉妬した貴族令嬢たちとナリッサの間にひと悶着あったりして、最終的にその結婚話が流れたのは金色のオーラが理由だった。
領地を持たないベルトラン家だが、貴族には幅広い人脈がある。そのベルトラン家がイブナリア王族の末裔を立ててグブリア皇家と対立すれば、帝国はベルトラン家に乗っ取られかねない――皇帝カインはそう危惧したようだった。
じゃあ、ナリッサは誰とだったら結婚できるのよ!
いち読者のあたしは憤慨しつつも、「やっぱユーリックだよね」とノータイムで結論に達した。だって、小説の中のナリッサはユーリックに恋してたから。
でも、今目の前にいる回帰してない皇女ナリッサがユーリックをどんな目で見てるのかよくわからない。ユーリックとナリッサの恋を応援するつもりであれこれやっても、本当はそこに恋なんて存在せずあたしだけが空回ってるだけのような気がする。
ティーカップを手に向かい合うナリッサとイアンは、以前あたしがチェストと同化してのぞき見したユーリックとナリッサの面会よりもずっと寛いだ雰囲気だった。
「イアン卿は宰相様の息子なのにどうして威厳がないのかしら。貴族ってもっと偉ぶった人ばかりだと思ってたのに」
「ぼくが偉ぶった貴族だったらナリッサ様はそんなふうに笑って下さらないでしょう?」
「そうね。でも、イアン卿が見たいのはわたしの笑顔じゃなくてゾエの笑顔じゃない?」
「またそんなことを言ってぼくをからかう。ゾエはぼくにとって尊敬する先生です。望んで手に入るものとそうでないものがあるのは皇女殿下もおわかりでしょう?」
「平民でも貴族と結婚できないわけじゃないわ。マリアンナのお母さんは平民だけど男爵様と結婚したのよね?」
突然話を振られ、マリアンナは面食らったようだった。
「たしかにわたしの母は平民です。しかし、結婚したといっても第二夫人ですし、ベルトラン卿の場合は……」
マリアンナの一瞬の躊躇いにイアンはクスッと笑い、自ら続きを話しはじめた。
「ナリッサ様。銀色のオーラを継ぐ貴族の男は一生のうち一人しか妻を娶ることができません。それに、トッツィ卿の母君は平民といっても帝国屈指の商会、ザルリス商会会長の娘ですから一般的な平民とはまったく違います。それ以前に、もし仮にぼくがゾエに求婚したとして、どんな反応が返って来るかナリッサ様も想像できるでしょう?」
ヘラヘラ笑いながら話すイアンがちょっとかわいそうだった。あたしと同じ心情なのか、マリアンナもナリッサも憐みの眼差しを向けている。
「ゾエには幼いころから何度もフラれているので、ナリッサ様もトッツィ卿もそんな顔しないで下さい」
憐れみ倍増。
たしかにニール研究所でもイアンはゾエを口説いていたけど、口説いていたのか脅していたのか微妙なところ。もしかしてイアンは本気でゾエに言い寄ったことはないのかもしれない。最初から諦めて、冗談めかして口にするだけ。
「それより、本日石榴宮にお伺いしたのはしばらく帝都を離れることになったからなんです。トッツィ卿はご存じですよね」
そうなの? とナリッサは後ろに立つマリアンナを振り返った。
「どうして教えてくれなかったの?」
「ベルトラン卿が何も言わず帝都を立たれたらわたしからお伝えするつもりでしたが、本日いらっしゃると聞いていたので」
「先日の事件のことと魔獣取引業のことでオクレール領の監査が行われることになり、官吏として彼の生まれた土地に向かうことになりました」
イアンの言葉にあわせ、オクレール卿は頭を下げる。
「わたしを含めた文官数名の他に、護衛と現地調査のため紫蘭騎士団員が向かうそうです。隊を率いるのは皇太子補佐官のアルヘンソ卿。帝都で聴取を受けていたオクレール男爵も一緒に向かうことになっています。先に帰らせて証拠隠滅されたら困るので」
オクレール卿がひっそりとため息をついた。父親のせいで心労が絶えないようだ。
「ゾエはイアン卿がオクレール領に行くことを知ってるの?」とナリッサ。
「いえ。監査に加わるよう宰相から言われたとき、ゾエはすでに研究所に戻っていましたから」
「ねえ、イアン卿には結婚や婚約の話はないの? 同い年の皇太子殿下には四人も皇太子妃がいらっしゃるのに」
恋バナしたいお年頃のナリッサの瞳はキラキラ。イアンは含みのある笑みを返した。
「皇女殿下との関係はどうなのだ、と宰相閣下に問われました」
「えっ?」
「驚くことはないでしょう? デビュタントの舞踏会でエスコートもさせていただいたわけですし、年齢も近い。それに、これまで臣籍降嫁された皇族女性は主に辺境伯家か公爵家に嫁いでいます。ベルトラン家はナリッサ様をお迎えするのに最もふさわしい――というのが一般的な見方だと思います」
「でも、それはわたしが偽物皇女でなければの話でしょう? 舞踏会のときわたしに向けられた視線は珍獣に向けるのと同じものだったわ。わたしと結婚したらベルトラン家の評判が落ちるわよ」
「それはないと思いますが、とりあえず婚約の話が持ち上がるかもしれないということだけ頭に入れておいてください。持ち上がったとしても、残念ながら成婚までは至らないというのがぼくの予想です」
「ゾエがいるから?」
ナリッサの無垢な問いにフッとイアンが笑う。金色のオーラを手離したくない皇帝は婚約を許可しないと踏んでいるのだろう。
じゃあ、小説の中のイアンは?
頭の中で記憶を頼りにページを繰った。あの天然系弟キャラのイアンも成婚しないことを知っていたんじゃないだろうか。そうして結婚を先送りして、ゾエに会うためにナリッサの周りをウロチョロしていた?
小説にはイアンとゾエの関わりなんてひとつも書かれていなかったけど。
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