序章

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 ぽっぴん、という軽やかな音がする。なにかが破裂したような音でもあり、けれどそれにしては、小さくて余韻のない音だった。(あおい)ははて、と首を傾げた。  蒼は二階にある自室でひとり、手習いをしながら留守番をしているところだった。夏らしい青い空と明るい太陽が、開け放った雨戸から見えている。こんなにもいい天気なのだ。少しくらい外に出たい。そんなことを考えていた矢先に、その不思議な音が聞こえてきたのである。  ――ぽっぴん  と、また聞こえてくる。蒼はそっとそっと、窓に近づいた。畳と着物とが擦れ合って、するすると音が鳴る。  ――ぽっぴん  雨戸の外を覗き込んでみたのと同時にまた鳴ったその音は、心なしか先ほどよりも大きくなったような気がした。音は近づいたのに、けれど、外に誰かがいる様子はない。  ――ぽっぴん  音の出どころはわからない。けれど間違いなく、その音は階下から聞こえてくる。蒼は少し考えてから静かに立ち上がり、そろりそろりと部屋を出た。  ――ぽっぴん  そうして、いつも以上に時間をかけて階段までたどり着くと、蒼はまた、少し考える。  蒼がひとりで留守番をする際、母にはいつも「決して階段を下りてはならない」と言い聞かせられていた。危ないから、と母は言った。そして蒼はその言いつけを破ったことは一度もなかった。それは母が怖いから、とかそういう理由ではなく、ただ単に、母が言うのならそうなのだろう、といういささかぼうっとした思考で受け入れていたのである。  ――ぽっぴん (でも、)  蒼は思う。だって不審な音がするのだ。それももしかしたら、この屋敷の中からするのかもしれない。雨戸から覗き見た外には少なくとも、なにの姿も見えなかった。父は勤めに出ているし、母は買い出しに出てまだ戻らないはずだ。となった今、この屋敷にいるのは蒼ひとり。  うずり、と蒼の中で子ども心が疼き出す。蒼がいくら聞き分けのいいおとなしい子どもだったとしても、やはり、子どもには違いないのである。それなりの無邪気さも、好奇心も持ち合わせている。  そもそも、今この屋敷にいるのが蒼ひとりということは、階段を下りたことを自ら言わない限りそれは誰に知られることもないのである。  蒼はとうとう階段に足をかけた。  ぎしり。  が、途端に木の板が鳴る。蒼はとっさにその足を引っ込めた。それはかすかな音だったけれど、蒼にはとても大きなものに聞こえたのだ。蒼の心臓はびくびくと震える。蒼は息を止めて、耳を澄ました。しん、と沈黙が響く。蒼はごくりと唾を飲み込んだ。が、その音すらも大きく聞こえて、蒼のさらに身を縮こまらせる。  そうしてじっとしているうちに、またあの音が鳴る。  ――ぽっぴん  その音を聞いて、蒼は詰めていた息をほっと吐き出した。この音がまた鳴ったということは、この音の主は蒼の行動は感づいていないということだ。  それから、蒼はまた考える。少し悩んでから、今度は階段に腹ばいになりそっと階下へと足を下ろした。体全体を使って慎重に下りることにしたのである。こうすれば軋む音も最小限に抑えられるかもしれない、と。  だが実際にそうやって下りてみると、確かに音は立たないものの、階段がとてつもなく長い道のりのように感じられた。いつもはトントンと簡単に上り下りしている階段なのに、まったく別の、もっともっと長い階段を下りているような気持ちになる。  だから、ようやっと階段をすべて下り終えたときにはどっと疲れてしまって、重い重いため息が蒼の口から漏れた。  ――ぽっぴん  それでも蒼は、改めて口元を引き締めると、音の聞こえる方へとゆっくりと、静かに、歩き出した。  ――ぽっぴん  進むたび、その音は着実に近づいてくる。  ――ぽっぴん  進みながら、蒼は確信する。 (やっぱり、お屋敷の中のどこかから聞こえてくる……)  そう思った瞬間、である。  蒼は唐突に怖くなった。だって自分以外に誰もいないはずの屋敷で奇妙な音がするのだ。もしかしたら、変な人が勝手に中に入って来たのかもしれない。あるいは、物の怪の仕業かも。だとすれば、この音の正体を突き止めるよりも先に逃げ出す方がよいのではないか。
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