序章

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 蒼が立ち止まったのと、例のあの音がまた鳴ったのと、それは同時だった。そして蒼はぞっとする。だって、音はもう本当にすぐそばまで迫っていたのだ。  蒼はゆっくりと、時間をたっぷりとかけて音のした方へと振り向いた。その先にはちょうど開いたままになっている襖があって、その向こうは客間になっている。襖の真向かいに位置する窓に貼られた唐紙は昼間の明るい光を透かしていた。そしてその手前に、人の姿が逆光の中の影となって浮かび上がっている。  それは、窓にしなだれかかるようにして横座りになり、惜しげもなくその白い脛を覗かせた女だった。欄干に肘を置き、頬杖をついている。逆の手は所在なげに女の口元辺りに浮いていた。  そしてその細い指先は、なんだろう、小瓶のようなものをつまんでぶらぶらさせている。赤、青、緑、さまざまな色の硝子が組み合わされたその小瓶は、太陽の光を受けて畳の上に綺麗な模様を描いていた。その小瓶がまた不思議な形をしていて、下の方はその辺にある小瓶となんら変わらずまあるく膨らんでいるだけなのだが、口の方は、その膨らみから細い筒をただただ伸ばしただけの形をしているのだ。その筒はあまりにも細すぎて、きっと水さえも通らない。それに、筒の部分は妙に長い。  女はゆっくりと蒼の方へと目を向けた。ゆっくり、ゆっくりと。  そうして目と目が合って、時が止まった。  どのくらい見つめ合っていたのかもわからない。ほんの少しの間だったのかもしれない。一刻もの間見つめ合っていたかもしれない。  そんな時を再び動かしたのは、女の指がつまむその不思議な小瓶だった。女の指先から、それがつるりと滑り落ちたのだ。小瓶は鈍い音を立てて畳の上に転がった。「あ」と女が短く言葉を零す。女は落ちた小瓶へと視線を動かし、蒼もまた、つられるように小瓶に目をやった。女の細くて白い指が再び小瓶をつまみ上げ、傷がないかを確認するようにつるつると表面を撫でるのをじいっと見つめる。畳に映った色とりどりの硝子の影がゆらゆらと揺れ動く。  妙な緊張感があった。割れてしまっていたらどうしよう。蒼はなぜだか、無性にどきどきしていた。  と、女の指先はひととおり小瓶の確認が済んだのか、それを欄干にそっと置いた。揺れていた硝子の影も、ようやっとひとところに落ち着く。きっと傷はなかったのだ。  それを見届けたあと、蒼は唐突に、はた、と我に返った。 「どなた様ですか」  するり、とそんな問いが唇から零れる。その声音は戸惑いに溢れていた。見知らぬ女が座敷の中に、それも知らぬうちに入って来ていたことに対して、蒼の中では恐怖よりも戸惑いの感情が勝ってしまったのだ。たぶん、この女があまりも堂々としているからだ。  欄干の上の小瓶を眺めていた女の顔が、リンと鈴の音が鳴るような仕草で蒼の方へと動いた。相変わらずの逆光でその風貌ははっきりとは見えない。が、それでも、その女が若くて美しく、そしてどこか色気のある「いい女」であることは蒼にもわかった。 「ただの客人さ」  女は短く応えた。その声は存外低く落ち着いていて、耳に優しい。でも、あまりにもぞんざいな物言いだった。
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