50人が本棚に入れています
本棚に追加
一、
ことが起こったのは、それから三日後の夕暮れ時のことだった。
あの日、結局降り出してしまった雨の中すずは帰っていき、蒼もまた、何事もなかったように自室へと引き返した。それから少しして佐江が帰ってきたがなにを言われることもなかったため、すずの突然の訪問も、蒼が勝手に階段を下りたことも、佐江には知られていないらしかった。
(このままなにも起こらなかったら……)
蒼は隠していたビードロを取り出してため息を吐いた。約束の日まで、あと二日しかない。
(どうすればいいのか、さっぱりわからない)
ビードロをあの日のすずのように指でつまんで、蒼はゆらゆらと揺らす。
まだ、この笛を吹いたことはなかった。あの日以来屋敷にひとりきりになる機会はなく、吹いてみることはできなかったのだ。あの日のあの音を思えば、こっそりと吹くことができるような代物ではないことはわかっている。
(それに、父上も帰ってこないし……)
蒼の口から、今度は大きなため息が漏れた。
そう。あの日の夜に朔太郎は一度帰ってきたものの、そのあとすぐにまた家を出てしまい、以降戻っていないのである。佐江に「しばらく戻れないかもしれない」と話しているのを蒼は聞いた。
「蒼」
と、佐江が蒼の名を呼びながら階段を上ってくる音が聞こえてきた。蒼はビードロを咄嗟に自分の袖の中に隠す。ころん、とそれが袖の中で転がったのと目の前の襖が開いたのはほとんど同時だった。
「蒼、」
「ど、どうしたのですか、母上」
姿を見せた佐江に、蒼は思わず目を丸くしてしまう。佐江の顔色はひどく青白かった。
「具合が悪いのですか」
思わず蒼はそう尋ねて立ち上がろうとした。が、袖の重みに阻まれる。今立ち上がれば、袖になにかが入っていることに佐江が気づいてしまうかもしれない。蒼は腰を少し持ち上げるだけに留めた。
「蒼、朔太郎さんから文が届いたのよ」
佐江は蒼の前に半ば崩れるようにして膝をついた。眉はぎゅっと中央に寄せられ、今にも泣き出しそうな顔をしている。母のこんな表情を、蒼は初めて見た。蒼の心臓がうるさく鳴り出す。痛いくらいに。
(まさか、父上になにか……)
見れば、佐江の手には文が握られている。蒼はそれに手を伸ばした。けれど蒼がそれを手にするよりも早く、佐江が口を開く。
「見つけたのだ、と」
佐江の唇がわなわなと震えていた。それは紛れもなく恐怖の現れだった。
「なにを……」
蒼が尋ねるも、佐江は唇ばかりか、文を握り締める手までも震えてそれに応えない。それどころか、口にするのもおぞましい、とでも言うようにその唇はきつく引き結ばれてしまった。そんな佐江の姿を見て、蒼は思った。
(ああ。母上は、父上のお仕事を知っていたんだ……)
今までずっと、朔太郎は妻である佐江にさえ自身の生業について語ってはいないのだと思っていた。ふたりでそういう話をしているのを見たことがなかったし、佐江が口出ししているのも見たことがなかった。佐江は朔太郎の勤めを知らず、しかしそれについて話したがらない朔太郎の意を汲んで口を出さないのだとばかり思っていたのだ。
でも、違った。佐江は知っていて、黙っていた。黙って朔太郎の帰りを待ち、黙って朔太郎の怪我の手当てをしていたのだ。
蒼は佐江の手に握られた文を半ば奪うようにして取り上げた。そして開く。そこには見覚えのある朔太郎の字で、短く、簡潔に、言葉が綴られていた。
とうとう見つけた。急ぎ戻る。
けれど、書いてあるのはそれだけだった。
「……どういうことですか?」
これだけの文章では、結局、朔太郎がなにを見つけたのかはわからない。
が、佐江に尋ねてみても、佐江はとうとう泣き出してしまい話をできそうにもない。
「母上!」
蒼はとうとう腕を上げ、ビードロが袂の中で揺れるのも構わず、佐江の細い肩を掴んで揺すった。
そのときだった。
最初のコメントを投稿しよう!