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――ぽたり
蒼の頬に、水が垂れた。まあるい頬を、つう、と水が伝う。蒼は天井を見上げた。木の天井に、水が染みたような歪な丸い模様ができている。その中央辺りから、また、蒼の顔めがけて雫がぽたりと落ちてきた。今度は顎に落ちる。それはあまりにも唐突だった。
(雨漏りかな。でも、雨も降っていないのに……)
蒼は佐江の肩を掴んでいた手で顔に垂れた水を拭った。と、佐江も蒼の視線の先に気がついたらしい。ひっと声にならない声を上げた。
もともと、佐江が妙に水を怖がる節があることを蒼は知っていた。突然の雨や、それから、屋敷のある山の麓に流れる川も、佐江は怖がっていた。今回もそれだろうか、と蒼は思う。
「母上?」
「……呪いだ」
と、佐江はぼやく。
「呪い?」
蒼は呆然と呆然とその言葉を繰り返すことしかできない。
「呪い……いや、祟りだ」
けれど佐江は蒼の問いには応えず、そう呻くだけだ。その様子は、我を忘れて取り乱しているようにも見える。それから佐江は、雨漏りから逃げるように体をのけぞらせる。
「ねえ、母上」
蒼はそんな佐江の尋常ならざる様子に呆然としつつも、再び佐江の方へと手を伸ばす。途端に、佐江は蒼を睨みつけ、叫んだ。
「来ないで!」
それは蒼の聞いたことのない、甲高い悲鳴のような叫びだった。いつもの、蒼を𠮟りつける声にも少し似ている。けれど、そこに込められた情動はまったく違っていた。そこには恐怖しかなかった。まるで命乞いでもするかのような叫び。
「母上」
「お願いだから来ないで。う、動かないで!」
そう言いながら、佐江はずるずると後退る。その間にも、ぽたり、ぽたりと雫が蒼を湿らす。佐江の恐怖がこの水に向けられているらしいことは蒼にもなんとなくわかった。ぞくり、となにかが蒼の背筋を這う。心の臓がキンと冷えた。
――ぽたり
「や、やっぱり、化け物の子だった……」
佐江の震える唇が、蒼には理解のできない言葉を紡ぐ。
「朔太郎さんの頼みだったから、あたしは、あたしの子でもないあんたを……」
佐江の目は恐怖に濡れながらも、今度は様子を見張るように雨漏りのしている天井にしかと据えられた。
――ぽたり
「けど、やっぱり無理だ」
と、佐江は蒼を見た。恐怖に満ち満ちたその目で、蒼を見た。恐怖の対象がこの水だけではないことを、蒼は確信せざるを得なかった。佐江は蒼を見て、言った。
「あんたみたいな化け物の子に巻き込まれて死んじまうなんて、あたしはごめんだよ!」
――ぽたり
頬を水が伝う。視界がぶれた。
――ぽたり
雫の落ちてくる間隔が、だんだん狭まっている。
――ぽたり
佐江の視線が、また天井へ移る。そして、その目が驚愕に見開かれる。けれど蒼には、そんなことに気づく余裕さえなかった。
(化け物の、子……?)
佐江に向かってまた手を伸ばす。母親に縋ろうとする。佐江はそんな蒼の行動に気がつき、とうとう腰を上げて部屋から走り出た。階段を転げるような音を立てて下りていき、それから、がたん、と乱暴に玄関の戸が開けられた音がした。佐江の、家を出て行く音だった。
――ぽたり
(どうして)
――ぽたり
(どういうこと)
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