11→10 廻る 一

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11→10 廻る 一

   11→10 (まわ)る      一  モダンな二階建ての建物。一階部分は茶館(さかん)になっており、そこから最近、巷で流行っている歌謡曲のレコォドが、会話の邪魔にならない適度な音量で漏れている。そしてまろやかで芳醇な、珈琲豆を挽いた芳しい薫りも漂ってくる。 「珈琲と卵サンド、お待たせしました」  新聞を広げた男が座るテーブルに、不慣れな手付きで、受け皿と珈琲茶碗がそっと置かれる。半呼吸遅れて、サンドウィッチを載せた皿が並べられた。 「あれ? 君、新しい子?」 「はい! 今日からこちらでお世話になる、檜垣美帆(ひがきみほ)と申します! 今後ともご贔屓にしてくださいね!」  美帆は少し癖のある短いおさげ髪とふんわりとしたエプロンを揺らし、ペコリと頭を下げた。当然、極上の笑顔も忘れない。 「や、元気だなぁ。オレはね。近所の商店街で八百屋やってる冨田だよ。アヤちゃんの顔を見に、ちょくちょく来るからよろしくな」 「はい! こちらこそよろしくお願いします!」 「アヤちゃん、(あきら)。元気で可愛らしい女給さんが入って良かったじゃないか。これでちょっとは忙しい時間帯も楽になるんじゃないか?」  隅々まで読み尽くし、くたびれた新聞を畳みながら、常連客である八百屋の主人は乾いた明るい笑い声を発した。 「そうねぇ。美帆には頑張って働いてもらわないと、私もゆっくり珈琲を飲んでいられないものね」  黒く艷やかな長髪を、小洒落た(かんざし)でくるくると一つに纏め上げ、体のラインがぴったりと出るモダンなワンピース。それらを嫌味なく身に纏った妖艶な美女が、紅を引いた唇に指先を当てて微笑んでいる。  そして彼女は定位置とばかりに、カウンターの端の席を占領して、晶に淹れさせた珈琲を口にしながら、艶美な笑みを浮かべていた。 「おいおい、よく言うなぁ。アヤちゃんはいわゆる店の看板じゃないか。いつもそこに座って、今まで注文一つとってくれた事もないだろう? ずっと晶一人で仕事全部こなさなくちゃならなかったから、本当に大変だったろう?」  カウンターの向こうで忙しなく動き回る少年が、一瞬だけ動きを止めて、男に向かって僅かに首を振る。 「大変じゃなかったって? でも珈琲淹れるのも、軽食作るのも、配膳も、今までみんな晶一人でやってたじゃないか。でもこれからは、美帆ちゃんが手伝ってくれるから心強いだろ?」 「あ、あたしなんてまだまだです! でも早く一人前の女給さんになって、綾弥子(あやこ)さんや晶さんの力になれるようにがんばりますって、気持ちばかり先走っちゃって! でも本当にがんばる気持ちだけは目いっぱいですよ!」  美帆は両手の拳を握り締めて、決意を口にした。 「はははっ。本当に美帆ちゃんは元気だねぇ」  冨田は把手のない和の雰囲気を醸した珈琲茶碗を、同じ絵柄の受け皿から持ち上げる。 「おや? 今日の茶碗はいつもの茶碗じゃないんだ。新しくした?」  冨田の質問に美帆は口ごもり、縋るような目を綾弥子に向けた。綾弥子は笑顔のまま、自分の珈琲を飲んでいる。晶も黙々とカウンター内で何かの作業に勤しんでいる。 「あの……えっと」 「あっはっは。困らせちゃったなぁ。変わったんだよ。昨日までは藍一色の一本筋の茶碗だったんだ。ほら、今日のは朱色の花に唐草模様も入ってるだろう? パッと見は古風な茶碗なのに、柄はハイカラ。アヤちゃんはいつもいい趣味してるねぇ」 「ふふっ。お褒めいただいて光栄だわ」  冨田が見せてくれた茶碗をまじまじと観察し、美帆は「なるほど」と頷いている。茶碗の柄など特に関心もなく、使えれば充分だと思っていた自分がほんの少し恥ずかしくなった。 「あたし、零さないように運ぶのに必死で、器の柄までちゃんと見てなかったです。落ち着いて見てみると、すごく綺麗な器ですね」 「アヤちゃんはどんなものに対しても、いいセンスをしてるから、美帆ちゃんも新しい服を買う時とか、意見をもらえばいいさ。美帆ちゃんなら相当可愛いモダンガァルになれるんじゃないかな?」 「む、無理ですよ! あたしなんてどうひっくり返っても、田舎くささが抜けようもないですし、そんなの……っ!」  美帆は真っ赤になって否定した。冨田は我が子を見る父親のように、照れる美帆を眺めながら、珈琲を一口啜った。 「じゃあさっそく、美帆ちゃんが作ってくれた、初サンドウィッチをいただこうか」 「えっ? あっ! ええと、あたしは配膳しただけで、作ったのは晶さん、です」  照れたように頬を染め、美帆は銀色のお盆で口元を隠す。冨田は分かってるよ、と笑いながらサンドウィッチを齧った。 「じゃあね。また来るよ。美味い珈琲がこの値段で飲める茶館なんて、他にそうそう無いからね」  冨田はクシャクシャになった新聞を小脇に抱え、綾弥子に手を挙げて挨拶する。 「ええ。お待ちしてるわ。でも今度来る時は、ちゃんとお店の仕事を片付けて、奥様に見つからないようにいらしてね」  綾弥子がクスクス笑いながら言うと、冨田はギョッとした表情になり、慌てて表戸を開く。そこには顔を真っ赤にした、彼の妻が立っていた。 「アンタ! またここでサボってたのかい?」  妻の剣幕に、みるみる体を小さくする冨田。 「綾弥子ちゃん、今度ウチのが来たら、入り口で追い返してやっていいよ! ちょっと甘やかしたら、すぐサボるんだからさ!」 「ふふっ。どうしようかしら? 冨田さんはうちの大切な常連さんだし?」 「まったく、綾弥子ちゃんは昔っから、なんにも変わらないねぇ。旦那なんて甘やかすもんじゃないんだよ。ほら、アンタ。帰るよ!」  年配の女は豪快に笑いながら、夫の襟首を掴んで帰って行った。 「あ、ありがとう、ございました……?」  嵐のように過ぎ去っていった常連客を見送り、戸惑いながら、美帆は開けっ放しの開き戸に向かって、唖然としたまま礼を口にする。 「美帆。間違ってるわ」 「あ、はい!」  いつの間にか、綾弥子がすぐ傍に立っていた。 「常連のお客様のお見送りは、『ありがとうございました』じゃなくて、『ありがとうございます』よ。うちでは言い切りの言葉は、一見(いちげん)のお客様や、それっきりのお客様に対して使うべき言葉なの。一見様になるか、常連様になるか、なかなか見極めは難しいけれど。できればうちへ来てくださる全てのお客様が常連様になればいいと思って、(げん)担ぎのつもりで『ありがとうございます』に統一してみなさいな」 「そういう意味があるんですか! 知りませんでした。次から気を付けます」  こめかみに指先を置き、美帆はモゴモゴと口の中で、「ありがとうございます」を反芻する。 「覚えました! 次からは大丈夫です!」 「ふふっ。期待してるわ。じゃあテーブルを片付けておいて」 「はい、すぐに」  綾弥子は定位置であるカウンター席の端の椅子に座り、冷めた珈琲を啜った。そして眉を顰める。 「ねぇ、晶。冷めちゃった。熱いのに淹れ直してくれる?」  カウンターの向こうから糊の利いた白いシャツに覆われた細い腕が伸びて、すっと綾弥子の珈琲茶碗を攫った。 「晶さん。お下げした食器って、ここで洗っていいんですか?」 「貸して」  晶は無表情のまま、美帆から配膳盆を取り上げる。 「え? でも今はお客さんもいないですし、あたしも手が空いてますから、洗い物くらいお手伝いできますよ?」 「僕がする」  簡潔に答え、晶は無言のまま茶碗と受け皿を洗う。手持ち無沙汰になってしまった美帆は、エプロンの裾を摘んだまま、ぼんやりと晶の手元を見ている。視線を泡まみれの食器に注いだまま、晶が抑揚のない言葉を紡ぎ出す。 「晶でいい」 「はい?」  突然名乗られ、美帆は小首を傾げる。  彼の名前は知っているが、今更なんだというのだろうか。 「“さん”いらない。晶でいい」 「え、あ……でも」  極端に表情が乏しい晶は、声にもほとんど抑揚がない。美帆にとって、今、彼がどういった感情を言葉に含めているのか、顔を合わせて日の浅い彼女には理解できなかった。 「えと……じゃあ“晶くん”でどうですか?」 「晶でいい」 「あの。年上、ですよね? あたしより」  おずおずと問い掛けると、晶は一瞬だけ美帆を横目で見る。美帆はその視線に射抜かれたように、ピッと背筋を伸ばして硬直してしまった。  怒らせて睨まれたとは感じなかったが、言い表しようのない圧迫感に見舞われたのだ。 「ねぇ美帆。晶が自分で呼び捨てていいって言ってるんだから、呼び捨てればいいんじゃないかしら?」  眼鏡のつるを摘んでクイと押し上げ、綾弥子は穏やかな声音で助け舟を出す。 「そう、ですか? あ、でも……あたしがここで働かせてくださいって訪ねてきた時、綾弥子さんも晶さんも、自分たちは二人っきりの姉弟だから、気兼ねしなくていいって仰ってくださいましたよね?」 「そうよ? 私と晶は二人っきりなの。美帆は新しい家族みたいなものよ?」 「そういうの、すっごく嬉しいです! じゃあ、やっぱり晶さんはあたしのお兄ちゃんですね。だから“晶さん”で」 「晶でいい」  念入りに洗い終えた食器を白い布巾で拭きながら、晶は三度(みたび)同じ言葉を繰り返した。さすがに三度も告げられた事を突っぱねるのはあまりよろしくない気もするが、目上の者に対する礼儀は軽んじたくはない。  美帆は少しだけ頬を膨らませ、拗ねて見せる。 「んもうっ! わからず屋さんですね! じゃあ、あたしも妥協しますからそっちも妥協してください! 晶くんは“晶くん”で決定です!」  晶に感情が乏しい分、美帆の喜怒哀楽はかなりはっきりしていた。足して二で割れば丁度いいのかもしれない。  静かで落ち着いた、商店街の外れにあるこの珈琲茶館では、今まで誰も聞かなかったようなはつらつとした明るい声音だった。  これ以上は一切譲歩しない、といった意気込みを込めて、美帆は腰に手を当て、にんまり笑って晶に宣言した。晶はゆっくりと視線を美帆へと移し、表情は変わらないが、少し戸惑ったように首を僅かに傾げ、数秒考え込んだ末に小さく頷く。 「じゃあ……それでいい」 「はい、決まりです」  にこりと笑い、美帆は両手を胸に置いた。 「じゃあ晶くん。これからもっとよろしくお願いします! 綾弥子さんもいろいろ教えてくださいね! あたし、早く一人前の女給さんになりたいです!」 「ふふっ。頼りにしてるわ」  いつの間に淹れ直したのか、綾弥子の前に湯気の立つ珈琲茶碗が置かれていた。その茶碗の上部をそっと掴み、綾弥子は美味しそうに淹れたての珈琲を飲んだ。
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