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二
日が傾き始め、店内は濃い影で包まれる。綾弥子は読んでいた新聞の文字が影で見えづらくなり、くいと眼鏡のつるを押し上げた。
「ううん、ダメね。もう暗くて読めなくなっちゃったわ」
「日が落ちるのも随分早くなりましたよね」
まだ残暑厳しいものの、暦の上ではもう秋。美帆の言う通り、一時を思えば、日が翳ってしまうのもかなり早くなっていた。
美帆は店内のシンプルな瓦斯燈に火を入れようと、燐寸を手にする。
「美帆。灯りはいらないわ」
綾弥子に注意され、美帆は小首を傾げる。
「でももう真っ暗ですよ?」
「ええ。だからお店、閉めるわ。うちは夜まで店を開けてはいないから」
「そうなんですか。営業時間は、明るい時間だけなんですね。じゃあ外の看板、持ってきます」
開き戸を開けてすぐの所に置いてある、「開店中」とチョウクで書かれた黒板式の立て看板を、美帆はよいしょと持ち上げる。そのまま店内へ運び入れ、綾弥子に問い掛けた。
「看板、どこに置いておきましょうか?」
「ええ、適当なところでいいわ。どうせ明日も使うんだし。それと、私は先に上にあがるから、後はよろしく」
綾弥子はカウンターの上に読んでいた新聞を放り出し、珈琲茶碗もそのままに、すっと席を立った。そのまま一度も振り返る事なく、店内から姿を消してしまう。
「綾弥子さんって、お店のお片付けも手伝ってくれないんですね。お昼間、何かお仕事されてました?」
少々呆れたように、美帆は晶に問いかけた。
「話し相手」
「え? えっと。お客さんの話し相手って意味ですか?」
晶は頷き、サイフォンや鍋を、流しに張った水の中へと浸ける。
「でもこの茶館って、綾弥子さんと晶くん、二人のお店なんですよね? 晶くんはずっと立ちっぱなしの働きっぱなしだし、晶くんの負担はすごく大きいですよね? それなら綾弥子さん、最後のお片付けくらい手伝ってくれても」
晶は無言のまま、じっと美帆を見る。美帆は慌てて両手を振った。
「ご、ごめんなさい! そうですよね。あたし、働くためにここにいるんですもん。店長さんの綾弥子さんがする事に文句言ってちゃいけないですよね」
内心ひやりとした手で心臓を掴まれた気持ちになる。焦りながら晶に詫び、決して広くはない店内のテーブルを順番に布巾で拭き始めた。
「えっと、テーブルを拭いて、あと、は……?」
最初に教えられた仕事の手順を思い出すように、美帆は頬に指先を当てて考え込む。
「補充」
「あっ、紙ナフキンとかお砂糖とかの補充ですね。ごめんなさい、ちょっと忘れちゃってました」
美帆は手近なテーブルの砂糖壺を開ける。
「結構減ってますね。予備のお砂糖はどこに置いてあるんですか?」
晶は白いシャツの胸元にあるポケットから、真鍮製の小さな鍵を取り出して美帆に差し出した。
「鍵、ですか?」
「倉庫」
晶は持っていけとばかりに、必要最低限の言葉だけを口にし、指先でつまんだ鍵を美帆に突き出している。
「あの……倉庫の場所を知らないんです、けど」
申し訳なさそうに美帆が申告すると、晶は無言のままカウンターから出て、店の奥へと歩き出した。美帆は慌ててその後を追う。
「あっ、待ってくださいよ!」
スタスタと振り返りもせず歩く晶を追って、美帆は小走りに彼を負う。
晶を追う内に、瓦斯の節約のためか必要最低限の灯りしかない陰りが落ちた薄暗い廊下の途中が、妙に狭い事に気付いた。
いや、狭いのではなく、身の丈ほどもある大きな箱が置かれていたのだ。
「木の箱? あ、時計だわ」
年季の入った焦げ茶色の振り子時計だった。嵩が高く大きな分、妙な迫力と威圧感があり、美帆は思わず立ち止まって時計を眺めた。
文字盤には、墨で描かれたものなのか、グルグルと歪な黒い渦が描かれている。この時計が見てきた月日を、木の年輪のように示すかのごとく、何重にも、何重にも。そのため、文字盤が煤けた針と同化してしまい、妙に時刻が見づらい。
自分の背丈より大きな時計のその文字盤に、まるで引き込まれるかのように、美帆はじっと見入っていた。
振り子は小気味好い音を発てて揺れている。カチコチと時を刻む小さな音も聞こえる。だが、文字盤の針は、おかしな時間を示したまま動かない。
「何してるの?」
「あ、お待たせしてごめんなさい。廊下の真ん中にこんな大きな時計だなんて、ちょっと邪魔じゃないですか? 変わってますけど、時計なんですから、お店に置くとか?」
異常なほど感情の乏しい晶は、無言で美帆を見つめており、もともとお喋り気質の美帆は間が持たず、とにかく何か喋ろうと頭を捻る。
「ええと、ええと……ふ、古そうな時計ですね。ご先祖から伝わる由緒正しい時計とか、そういうのですか? だからお店に置いたら日に焼けて傷んじゃうとか、そういう……」
相変わらず晶は無言で美帆を見つめている。
「え、あ、その。時計、時計……そうだ! これ、すごく変わった模様の文字盤ですよね。黒い渦がみっしり描かれてて……って、あ、あれ?」
出鱈目を指し示していた文字盤の長針が、カチリと音を立てて僅かに時を刻んだ。
「あれ? これ、今、逆に動きませんでした? 時計って普通は右回り、ですよね? でもこれ今、左に動きましたよ? 晶くんも見ました?」
ため息とも取れる浅い息を吐き、晶はゆっくりと口を開いた。好奇心旺盛な美帆のおしゃべりに、あるいは根比べに負けたような感情を抱いているのかもしれない。
「壊れてる」
「そうなんですか? だからこんな場所に置き去りなんですね。でも使えないんじゃ、置いてあっても邪魔じゃないですか? 修理するとか、買い換えるとかしないと、急いで通る時とかにぶつかっちゃいそうで、すごく邪魔だと思うんです」
美帆が提案するのは当然とばかりに、時計は元々さほど広くない通路の幅を窮屈に狭めている。それほど、とても大きく立派な振り子時計だった。
しかし彼女の提案に、晶は興味なさ気な雰囲気のままクイと首を傾ける。
「倉庫。こっち」
晶はそれだけ言い、再び歩き出した。故意的に無視されたのか倉庫の場所を教えたくて急いでいるのかは分からない。だが今は、自分を置き去りにして行ってしまう晶を追いかける事が何より先決だ。
「あ! 待ってください!」
不可思議な時計の事が妙に心に引っかかりつつも、美帆は急いで晶を追った。
倉庫の鍵を開け、晶はさっさと中へと入る。そして壁に吊された小さな洋燈に火を灯した。
「砂糖。珈琲豆。紅茶葉。小麦粉。備品。他は店のカウンターの下」
倉庫の中を順番に指差しながら、晶は淡々と説明を続ける。
「ちょ、ちょっと待ってください。控えてさせてください! 忘れちゃう!」
美帆は慌ててエプロンのポケットから手帳を取り出し、メモを取ろうと、ちびた鉛筆を走らせる。
「いらない。見れば分かる」
つっけんどんに言い放ち、晶は砂糖の袋を一つ手に取り、洋燈の火を吹き消した。
「ああー! まだ全部書いてないのに!」
「見れば分かる」
再びそう言い、晶は美帆の袖を摘まむように引っ張って倉庫の外へ出た。そして倉庫の鍵を締めてしまう。
「んもう。晶くんはちょっと意地悪さんですね」
「その内に慣れる。だからいらない」
砂糖の袋を持ったまま、晶は店の方へと歩き出した。美帆はぷうと頬を膨らませて彼を追う。そしてまた、あの振り子時計の前を通り、チラリと文字盤を見た。
『あれ? またちょっとだけ、針が逆に回ってたような?』
やはり気になるが、勤務初日から怒られたくはない。美帆は急いで店まで戻った。
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