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三
翌日――
茶館の店舗部分に出る開き戸の前で、美帆は心を落ち着けて数回深呼吸した。そして両手で扉を押し開ける。
「おはようございます!」
明るく元気よく挨拶し、美帆はペコリと頭を下げた。
店内にはすでに、綾弥子と晶が揃っている。綾弥子は昨日と変わらずカウンター席で珈琲を、晶はカウンターの中で食器を磨いていた。
「おはよう、美帆。よく眠れた?」
「はい、ぐっすりでした」
彼女は茶館の二階にひと部屋を借りていた。この茶館に住み込みで女給として働いていているのだ。
「今日もがんばりますので、どうぞよろしくお願いします」
「ふふっ。最初から飛ばしすぎても、途中でバテちゃうわよ?」
「元気はあたしの取り柄ですから、まだまだヘッチャラですよ!」
美帆は両手で拳を作り、それを胸元に置いてにっと笑って見せる。癖のあるおさげ髪が彼女の動きに合わせてピョンと跳ねた。
「じゃあさっそく、開店の準備をお願いね」
そう美帆に命じつつ、綾弥子はのんびりと珈琲茶碗を傍らに置いて、今日の新聞をめくっている。眼鏡の奥の黒い瞳は濡れたような艶やかさをたたえており、長い黒髪は今日も綺麗な簪でクルリと器用に巻き上げられていた。
美帆は一瞬呆けた顔になったが、慌てて首を振って正気を取り戻す。
「あのぉ、質問なんですけど、綾弥子さんは開店の準備とかって、しないんですか?」
思い切って、恐る恐る聞いてみる。返ってくるであろう答えは予想できていたのだが。
「私?」
綾弥子は意外だと言わんばかりの様子で、眼鏡の奥の目を丸くする。
「珈琲はまだ淹れたばかりで温かいわ。新聞もさっきちゃんと、晶が新聞受けから取ってきたものだし、日付も間違ってない。お化粧だってちゃんとしたし、髪もほどけていないわ。他に準備って何かあったかしら?」
とぼけている様子は一切ない。彼女は真顔で答えた。
「い、いえ。そうじゃなくて」
あまりに堂々とした高みの見物っぷりに、美帆は呆れて口ごもってしまう。するとカウンターの向こうから、晶がすっと何かを差し出してきた。どうやらその日のサービス品を知らせるための、手書きのメニュウ表らしい。
「これ、なんですか? ケ、ヱ、キ、セッ、ト……ケヱキってあのケヱキですか? 晶くん、西洋のお菓子も作れるんですか?」
こくりと頷き、晶はサイフォンをセットして、珈琲の粉を計っている。
「すごいですね! あたしまだ、ケヱキなんて食べた事ありません」
手書きのメニュウ表を眺めながら、美帆は指を咥えて、西洋菓子の未知の味に思いを馳せる。
甘いのか、酸っぱいのか、辛いのか。果物が乗っているので瑞々しいのか。ケヱキの絵に添えられた白い塊は白あんなのか、それとも別の知らない食べ物なのか。甘味の大好きな年若い彼女の西洋菓子への妄想は尽きない。
「美帆はケヱキを食べた事ないの? じゃあ今日のお昼に食べてみる? あなたも味を知っていれば、自信を持ってお客様にお薦めできるでしょう?」
「えっ? いいんですか? 食べたいです! ぜひいただきたいです!」
綾弥子に抱き付かんばかりの勢いで、美帆は目を輝かせて前のめりになる。
「という事よ。晶、今日の美帆のお昼はケヱキセットにしてあげて」
にこやかに微笑む綾弥子の言葉に、晶は僅かに顔を彼女に向けて頷いた。
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