10→9 訝しむ 一

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10→9 訝しむ 一

     一  店の入り口に取り付けられたベルがカランと鳴り、美帆は慌てて振り返って笑顔で客を出迎える。 「いらっしゃいま……きゃあああ!」  出迎えの言葉は後半、黄色い悲鳴となる。その声に驚いた綾弥子は、手にしていた珈琲茶碗を落として、テーブルに広げていた新聞を琥珀色に染め上げてしまった。しかし晶はまったく動じず、サッとカウンター越しに綾弥子の前に腕を伸ばし、布巾で零れた珈琲を拭き取り、二次被害を防ぐ。素早く見事な手際だった。 「まぁ驚いた! 急にどうしたの?」 「わぁ! わぁ! (かけい)淑子(としこ)さんですよね? すごい! まさかここで筧さんにお会いできるなんて! すごく嬉しいです! 握手してもらえますか?」  入り口に佇む女性客を見ながら一人大騒ぎする美帆を見て、綾弥子は訝しげに眉を顰める。晶は綾弥子の座るカウンターの惨状を、黙々と片付けていた。 「美帆。知り合いなの?」 「ええっ? 綾弥子さんは筧さんをご存知ないんですか? 今、大人気の歌劇女優の筧淑子さんですよ! 筧さんの出演される舞台はいつもすっごく大人気で、公演切符を取るのも一苦労なんですから! それから……あ、ほら! このレコォドの歌を歌ってらっしゃるんです! あたし、筧さんのお芝居は見切り席からですけどほとんど見たし、歌は全部覚えてるんですよ! わぁ、夢みたい!」  美帆が目を輝かせて、店の隅に置かれた蓄音機を指差す。これも年季の入った蓄音機だが、何ら使用に問題はない。レコォドに吹き込まれた、耳に心地よい(あで)やかな音楽を、談笑の邪魔にならない程度の音量で流し続けている。 「あの……わたしの舞台を観て、歌を聞いてくれてる事は嬉しいのだけれど、ごめんなさいね。今はお忍びなので、あまり騒がないでほしいわ」  筧は大判のスカーフで口元を隠し、困ったように美帆から顔を背ける。 「す、すみません! 本物の女優さんにお会いするなんて初めてだったので、つい舞い上がってしまって!」  彼女に対して深々と頭を下げたものの、美帆の興奮は収まらない。 「あっ、ええと、ええと……こ、こちらの席にどうぞお掛けください! 窓からの眺めがすっごく素敵なんです! 窓から空を見上げた時、空の一部を切り取った彩画みたいに見えるんですよ! あたしのお気に入りの席なんです」  慌てて筧をテーブルへと案内しようとする美帆。だがふいに、綾弥子が席を立った。そして晶に向かって目を細めて頷きかける。晶も無言でコクリと頷き、カウンターを出た。 「ようこそ、“特別なお客様”。奥のお部屋へご案内しますわ」 「え? 特別な……?」  美帆を制するように片腕を伸ばし、綾弥子は筧の前に立つ。筧は訝しげに押し黙って綾弥子を見つめていたが、ふと何か思い出したのか、ハンドバッグを飾る装飾品のように指していた一輪の黒い薔薇を抜いて、綾弥子に差し出した。綾弥子は微笑みながらそれを受け取り、筧の背を押して店の奥へと案内しようとする。 「え? あの、綾弥子さん? どちらに?」 「美帆。彼女は特別なお客様なの。私と晶が対応するから、あなたはしばらく店をお願いね」 「ええっ! む、無理ですよ! あたしまだ一人じゃ何も……」  焦る美帆の目の前に、すっと一枚の紙切れが差し出される。紙切れを持っているのは晶だった。 「支度中、ですか?」 「休憩してればいい」  達筆な筆文字で『支度中』と書かれた紙を受け取り、美帆は小首を傾げた。 「お店、一旦閉めちゃうんですか? まだ開店して間もないのに」 「奥、覗かないで」  それだけ言い、晶は足早に店の奥へと消える。 「悪いわね。美帆はお店を一旦閉めてお留守番しておいてね。さぁ、筧さま。遠慮なさらずこちらへどうぞ」  意味深な笑みをたたえ、綾弥子は筧と共に、晶の消えた店の奥へと行ってしまう。 「いきなりお留守番だなんて……変なの。でもあたし一人じゃお店を切り盛りできないし」  困惑の表情を浮かべつつ、美帆は晶から受け取った紙を入り口の外へと貼り付けた。そして何をすればいいのか分からず、配膳盆を手に一人店内をウロウロとしていた。
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