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10→9 訝しむ 四
四
いつも通り、美帆は元気よく挨拶しながら店へと出る。
「おはようございまーす!」
「あら、おはよう。あなたは毎日元気ね」
すでにいつものカウンター席で、綾弥子は珈琲茶碗を手にしている。
彼女は一日ここにいて、幾度となく珈琲をおかわりするが、一体一日で何度おかわりしているのか。何の気なしにふと思ったが、聞いても数えても、女給の仕事には全く無意味なので頭の中からその疑問を振り払った。
綾弥子は自分の勝手で珈琲を飲んでいるだけで、他に他意はないはずだから。そして彼女は店の看板。初日に疑問に思い、冨田に言われた事や晶に言われた事を思い出しつつ無理やり納得し、美帆はいつも通り、綺麗に洗濯された白いエプロンを身に付けた。
鈍い、視線。
それに気付いて振り返ると、晶がカウンターの中から無言で美帆を見つめていた。昨夜の事もあり、彼に見つめられている事が、どことなく居心地の悪さのように感じて、小さく身動ぎしてしまう。
「あの、晶く……」
美帆が声をかけようとすると、晶はカウンター越しに手を伸ばし、綾弥子のものと同じ茶碗に淹れた珈琲を置いた。
「……え?」
「眠そうだから」
それだけ言い、晶は美帆から視線を外し、カウンター内の準備を再開する。
「あ、ありがとう」
虚を衝かれ、美帆はエプロンの端を掴んだまま、反射的に礼を口にしていた。
『そっか。やっぱりあたしの勘繰り過ぎなんだ。晶くんは、昨日の夜、寝てたあたしを起こしちゃったと思ってるから、お詫びと眠気覚ましにって、珈琲を淹れてくれたのよ。変に見られてるのがイヤだなって意識しちゃって、あたしこそ悪い事しちゃった。ごめんなさいって言っても、晶くんならきっと、「なにが?」って不思議な顔されちゃうよね? あたしも普通にしてるのが、きっと晶くんに対するお詫びになるよね?』
視線だけで彼に侘びと礼を告げ、美帆ははにかみながらカウンター席に座り、茶碗に手を伸ばす。熱い茶碗から立ち昇る湯気。珈琲の芳醇な香りが鼻孔をくすぐった。いつもながら、美味しそうな珈琲だった。美帆はその珈琲にたっぷりとミルクを注ぐ。
「いただきます」
珈琲を口にしようとした──その時。
店の入り口が乱暴に叩かれ、限界いっぱいまで大きく開かれた。そして怒りで顔を真っ赤にし、髪を振り乱した女性が押し入ってきた。
「か、筧さん!」
美帆の声が上擦るが、筧は美帆など目もくれず、怒髪天を衝くといった形相で綾弥子に詰め寄る。そのまま拳を叩きつけんばかりの勢いで、手入れのされた綺麗な指を綾弥子の鼻先に突き付けた。
「ちょっとアナタ! 話が違うじゃない!」
綾弥子は眼鏡のつるを押し上げながら、この状況にまるで動じた様子もなく、フフと、優雅に妖艶に微笑んでいる。
「わたしはすぐにやってって言ったのよ! なのに……」
「筧さま。詳しいお話は奥のお部屋で伺いますわ」
綾弥子は筧の唇に人差し指を当て、彼女の怒りや剣幕を削ぐようにただ微笑む。
「美帆。お店を開けるのは少し待っていて。筧さまのお話が終わってから準備するから。晶、奥のお部屋を用意してきて」
「えっ、あの……!」
「晶の珈琲、冷めちゃうわよ」
綾弥子は器用に片目を瞑り、筧を伴って店の奥へと姿を消した。美帆は口をへの字に曲げ、膝の上に乱暴に手をつく。
「んもうっ! 今度、筧さんに会ったらあたしも一緒にって思ってたのに! 綾弥子さんも晶くんも意地悪なんだから!」
不貞腐れながら珈琲を一口啜り、パチリと瞬きして美帆は茶碗を受け皿の上に置く。
「そうだ! 珈琲どうぞって、みんなの分の飲み物を持っていくフリして、一緒にお話に混ざっちゃえばいいんだわ。よく分からないけど筧さん、なんだか随分怒ってたみたいだったし、温かいものを飲んだら落ち着いてくれるわよね、きっと」
名案を思い付いたとばかりに、美帆は急いでカウンターの中へと入る。普段は晶が立ち入らせてくれないのだが、今、店には自分しかいない。美帆はあちこち探りながら、三人分の珈琲茶碗を用意し、サイフォンから珈琲を注いで銀色の配膳盆に乗せた。
「準備よしっ! 行っちゃおうっと!」
両手でしっかりと配膳盆を抱え、意気揚々と美帆は店の奥へと向かった。
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