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 ――月を、見ている。  大きな満月の光に照らされながら、胸に抱えたものと一緒に、ただひとりで死んでいこうとしている。 「……」  これは、ゲームだ。ゲームの中で死んでしまっても、現実世界で死ぬわけじゃない。  だとしても。それでも。  ゲームだろうと、なんだろうと。  人知れず冷たい水の中でゆっくり死んでいくなんて、さみしいに決まってる。 「っ祓え給い、清め給え!」  大きな水柱と音を立てながら、僕は泉の中に飛び込んだ。術技を発動するための詠唱を開始したことで、自動的に特コスから巫女の衣装に切り替わる。  いきなり膝下まで水に浸かってしまったうえに、濡れた袴が足にまとわりついて歩きづらくて仕方がない。水の容赦ない冷たさに(ひる)みそうになるけど、鈴を持った手を前後に大きく動かしながら、少しずつ鬼面の元へ進んでいく。 「神ながら守り給い、幸え給え!」  突然の僕の登場に驚いたのか、鬼面がこちらを振り向いたような気がした。でも、のんびり確認している余裕なんてない。ただ、せめて逃げないでほしいと強く願った。これ以上の距離が空くと、助けることができなくなる。  ステータスウインドウが点滅して、異常が起きたことを知らせてきた。表示は――《毒》。泉から出ないかぎり、僕の体力が少しずつ削れていってしまう。 「白露(しらつゆ)に、風の吹きしく、秋の野は……!」  冷たいし、寒いし、全身がじわじわと痺れていく感じがして苦しい。なんだか泣きたくなってきた。でも今の僕と同じ思いを、きっと鬼面もしているんだ。そう思ったら立ち止まれない。 「つらぬきとめぬ、玉ぞ散りける!」  あと、もう少し。もう少しだけ近づけば、鬼面が回復術技の範囲内に入る。けれど僕の体力も、そろそろ限界だ。視界の端っこが真っ赤に点滅して、必死に危険だと伝えてくる。ああ、もう。うるさいな、わかってるよ。わかってるから黙ってて。  鬼面の体力が尽きるのが先か、僕の体力が尽きるのが先か。足先で毒の花を蹴散(けち)らし、膝で泉の水を押し返すようにして、前へ前へ。 「百華祝詞(ひゃっかしゅくし)白露玉(しらつゆだま)》――!」  発動のトリガーとなる言葉をさけぶと同時に、無数のシャボン玉のような泡が鬼面を取り囲んだ。そのうちのひとつが鬼面に触れて弾けて消えると、体力ゲージが少しだけ回復する。赤から緑へと変わったことを確認して、僕はほっと息をついた。  あと五歩も進めば触れることのできる距離まで来たので、鬼の様子もはっきりと見える。あきらかに驚いて、戸惑って、呆然としている。  そうだよね、びっくりするよね。わざわざ毒の泉に飛び込んで自分の命と引き換えに回復してくる知らない巫女って、ちょっとしたホラーだよね。――でも。 「よかったあ……」  目の前で誰かが死ななくて、本当によかった。  すっかり気が抜けてしまった僕は、そのまま重力に従って前のめりに倒れ込む。顔から思いっきり水面に突っ込んだことも気にならないくらい、眠くて眠くて仕方ない。こぽこぽと泡をはき出しながら、泉の底で咲く鮮やかな毒の花の元へ、ゆっくりと沈んでいく。  ああ、きれいだなあ。そんなのんきなことを考えながら目を閉じた僕の腕が、なにかにつかまれたような気がした。
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