アンバー・アンド・ジェイド

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「あー、あれ、おいしそう」  隣ではしゃぐ、長い茶髪に、桜色の唇を持った可憐なひと。  薄く施された化粧は、元々整った顔立ちをより華やかに見せている。  俺だって、このひとが彼女なら、もっと浮かれていただろう。  しかし、そんなことはありえない。 「翡翠(ひすい)?」  彼女――いや、彼は俺の顔をのぞきこんでくる。 「……いや。考えごとしてた。何がおいしそうだって?」 「あのジェラートだよ。翡翠も、アイス好きだろ? 行こうっ」  語尾に音符がついていそうな軽やかな口調で言って、俺の兄――琥珀(こはく)は走り出す。  俺はため息をついて、彼を追った。    俺と琥珀は、双子の兄弟だった。  双子といっても二卵性で、顔はあまり似ていない。  くわえて、琥珀は頭がよくて運動神経も抜群。顔も某アイドル事務所にいそうなぐらい整っていて、当然、女の子にもてた。  対して、きわめて平凡に生まれついてしまった俺。 「琥珀くんの双子の弟って、どの子?」  と興味本位で教室まで見に来られて、がっかりされた回数は数え切れない。  勝手に期待するな。二卵性だっつってんだろ。  小学校以降は同じクラスになることも少なく、琥珀は生徒会に所属して華やかな学生生活を送り、俺は平々凡々な学生を続けていた。  顔を合わせるのは、家でぐらい。  学校ですれ違いそうになったら、俺が物陰に隠れたり進路を隠れたりして、出くわすことを回避した。  当たり前だが、琥珀は俺に対して劣等感など抱いていないから、学校でもすれ違えば普通に話しかけてくるのだ。 「え、お前、佐藤琥珀と兄弟だったの?」  とクラスメイトに驚かれるのを避けられる、というわけだ。  幸い苗字が「佐藤」というありきたりな苗字なので、黙っていればバレない。  と、まあ――中学から高校一年生まで、俺はなるべく琥珀と関わらない生活を送っていたのだが。  高校一年の冬。ある日突然、琥珀が俺の部屋に来たのだ。しかも、女装した姿で。  俺は驚きすぎて、金魚のように口をぱくぱくさせることしかできなかった。 「実はさあ――僕、こういう趣味に目覚めたんだよね」 「…………しょ、正気か!?」 「正気。大体、最近はジェンダーレス男子とかいるらしいじゃん? なら、別におかしくないよね」 「そ、そうなのか?」  いくら多様化が進んでいるとはいえ、いざ身内に女装癖があると知ると冷静ではいられなかった。 「僕、この前、ひとりで出かけたんだ。そしたら、男に絡まれちゃって。振り切るの、苦労したんだ」  自然すぎて地毛に見える長い茶髪のかつらの前髪をかきあげ、琥珀はため息をつく。 「だからさ、今度出かけるとき、一緒に行ってくれない?」  琥珀は天使のような笑顔で、そう頼んできた。  そうして、なぜか俺は女装した琥珀と時折出かけることになっていた。  今日の目的地は、水族館だ。  琥珀は女性らしい仕草で、ペンギンを見て「かわいいー」と心持ち高い声を出している。  彼女と行けばいいのに。いや、既に行っているのか。  次いで、くらげの水槽が集まるフロアに出た。  琥珀は、まじまじと大きなくらげを見つめている。  俺はくらげが苦手なので、目をそらして天井あたりを眺めていた。 「そういえば、翡翠はくらげ嫌いだっけ」  振り返って問われ、俺は小さくうなずく。  近くを歩いているカップルの女のほうが、「きゃー! くらげかわいい!」と叫んでいるが、どこがかわいいのか。  不気味だし、毒を持っているのも多いしで、俺にはくらげの魅力はわからない。 「お前、くらげ好きなの?」  問い返すと、琥珀は苦笑した。 「いや、普通」  普通かよ。  ……ん? なんか、これに似たような会話をしたことがあるような――。 「昔、水族館に来たときにも同じ会話をしたよね」  琥珀に言われて更に記憶が刺激され、俺はようやく思い出す。  小学生のころ、家族でこの水族館に来たんだった。  あのときは俺は琥珀といつも一緒だった。  まじまじとくらげを見つめる琥珀が不思議で、尋ねたのだった。 『琥珀、くらげ好きなのか?』 『うーん、普通』 『普通かよ』  映像を脳内再生しているうちに、琥珀が歩きはじめたので、俺は慌てて琥珀の背中を追った。  大きな水槽には、鮮やかな色の魚がたくさん泳いでいる。熱帯魚だろう。  琥珀は長い人さし指で、水槽に触れる。そうすると、まるで彼が魚を操っているように見えた。 「翡翠は、僕のことも嫌いだよね」 「は?」  聞き返したときにはもう、琥珀は指を離して進んでいた。 「待てよ、琥珀。別に――俺は」  早足で歩く琥珀を追い、俺は早足になる。  家族連れが、不審そうに俺たちを見ている。  痴話げんかしたカップルとでも思われているのだろうか。 「お前のこと、嫌いじゃないって!」  大声で叫んで琥珀の腕をつかんだ瞬間、お土産屋に出て、俺は顔が熱くなるのを覚えた。  他の客の視線が痛い。 「――本当?」 「お、おう」 「それなら、よかった」  琥珀は微笑み、あざらしのぬいぐるみを手に取っていた。  水族館を出て、俺たちは適当にショッピングモールをうろつくことにした。  天然石を売っている店があって、琥珀がふらふらと入っていく。  俺も仕方なしに、彼に続いた。 「見て、翡翠。翡翠だよ」  琥珀は、大きさがばらばらな石のひとつを取って俺に見せてくる。  緑の石――翡翠。  天然石と書いていたが、本物にしてはついている値札が安い。 「いいよな、翡翠って。きれいだもん」  思わずぎょっとしたが、石のことを言っているのだとすぐに悟り、咳払いする。 「琥珀も、きれいだろ」 「うーん。きれいだけど、虫とか入ってるからあんまり好きじゃない」 「……そうか?」  太古の昔に固まったというのが一目でわかるのが、浪漫だと思うのだが。  琥珀は俺の反応を気にせず、色とりどりの石を見て微笑んでいる。  そんな横顔を眺めて、思わず問いがこぼれた。 「なあ、琥珀。お前、いつまで続けるんだ?」 「――実はもう、目的は達したんだ。だから、やめてもいいかも」 「目的? 目的って、なんだ?」 「翡翠と、一緒にこうして出かけること」  にこっと笑って、琥珀は俺の腕を引っ張る。 「はい?」 「昔はいつも一緒だったのに、中学校から避けるようになったじゃん? だから、避けられないように、一計を案じてみたんだ」 「……………………じゃあ、趣味ってのは」 「それは、本当。きっかけは、翡翠と仲直りするためだったんだけど、やってたら楽しくなっちゃって。僕さあ、表向きは優等生だし完璧な彼氏像を求められるしで、たまにすごく息苦しいんだ。だからこうして、別人になるの、楽しい」  ふふっと笑って、琥珀は一回転してスカートをひるがえした。  俺のほうは、気が抜けて膝をつきそうになる。  でも、まさか――琥珀がそんな風に思っていただなんて。  ああ、それでさっき「翡翠は、僕のことも嫌いだよね」と言ってきたのか。  たしかに琥珀からは、俺が嫌って一方的に避けているように見えたかもしれない。  劣等感ゆえの行動だなんて、わからずに。琥珀をここまでさせてしまったのは、俺のせいだったのか。 「翡翠? どうかした?」 「いや――。でも、お前がこうして出かけたいなら、別に男の姿でも付き合ってやるぞ」 「本当?」 「ああ」 「嬉しいけど、それはもったいないかな。さっきも言ったように、変身願望を叶えられるのが、この姿の強みなわけだし」  琥珀は考え込んで、腕を組んでいた。 「でも、こんな理由じゃだめかな。僕は心が女性なわけではないし、女性になりたいわけでもないし」  いきなり真面目な表情になったものだから、俺は肩をすくめる。 「別に、いいだろ」 「いいの?」 「趣味でも、やりたい格好をしたらいい。誰かが否定しても、俺が肯定してやる」  思いがけず力強い言葉になったが、琥珀は本当に嬉しそうに華やかな笑みを浮かべた。 「――うん。ありがとう。そしたら、翡翠。今度は、どこに行く?」 「……そうだなあ」  思案しながら、俺たちは歩き出す。  いつまで琥珀が女装を続けるのかは知らない。だが、意図せずして兄に嫌な思いをさせてしまった分、できるだけ付き合おうと思う俺だった。 (完)
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