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「春になるとさ、死にたくなるよね」
そんな不穏な言葉など似つかわしくもない、柔らかで穏やかな微笑みをその顔へと浮かべつつ彼女はそう嘯いた。
公園を見下ろすビルの二階にある喫茶店は、午後の中途半端な時間のためか閑散としていた。
大学にて新入学のオリエンテーションを終えた僕は、学部のラウンジにて人待ち顔で佇んでいたこの彼女と出くわし、連れられるようにしてこの喫茶店へとやって来たのだ。
彼女と向かい合わせで座っている窓際のテーブル席からは公園の風景がよく見渡せた。
幼子を遊ばせているお母さんや、連れ立ってベンチに腰を掛けている男女連れの様が目に入る。
そして、植わっている幾本かの桜の樹の様も目に入って来た。
その梢も撓まんばかりに花を咲かせた桜の樹々に視線を投げ掛けつつ、僕は気怠げな調子にて言葉を返す。
「じゃあさ、死ねばいいんじゃないですか?
それで、どんなふうにお死にになられるんですか?」
彼女がその顔に浮かべる微笑みはしみじみとした雰囲気を深めたように思えた。
小さく頷いてから彼女は再びその口を開く。
「私の言葉を否定もせず、かと言って過剰に肯定することもなく、ごく自然に受け入れてくれるって君の稀有なる美点だよ、ありがとう。
私のことをよく理解してくれてるね、流石だよ。
でもね、いきなり死ぬことを提案して、そして死に方まで聞いてくるだなんて、少しせっかちだと思うなぁ。
もう少し手順を踏んでくれたなら、もっと有り難いんだけど」
手順を踏め、ねぇ。
何がお望みの手順なのか聞こうかと思ったけど、それは止めた。
そんなやり取りをするのは面倒臭くて不毛だし、そんな思いをしたところで得るところは実に少ないから。
取り敢えずは調子を合わせるノリで、こう口にしてみる。
「まぁ、あれだよね。
春は死にたくなる要素に満ちてるよね。
別れは多いし、お涙頂戴って感じのさよならソングはわざとらしくて不愉快だし。
死にたくなるような気持ちを持つことは僕にだってありますよ」
嫋やかだった彼女の微笑みは、陰を孕んだ含み笑いのようなものへと変わる。
揶揄うような色をその瞳に浮かべながら、彼女は上目遣いで僕を見詰めつつこう言葉を返す。
「私の言葉に寄り添いたいという君のその姿勢は素敵だよ。
君としての死にたい気持ちもすごく興味深いな。
でもね、春になったから死にたい気持ちが芽生えて来るって考え方は、私のものとはちょっと違うかな。
君のその言い方だと、つくしんぼみたいに死にたい気持ちがムクムクと芽生えてくるって感じがして、あんまり面白くないなぁ。
それにね、私はそんな薄っぺらい死にたいポエムなんて聞きたい気持ちじゃないんだけど。
もう少し真剣にさ、私の言葉に向き合って欲しいんだけどな」
はぁ…、と僕は小さく溜息をつく。
手元のマグカップを取り上げる。
それを傾けて中の液体をズズッと啜り込む。
15分ほど前はコーヒーだと胸を張って主張できたであろうその液体は、その半端な生ぬるさのためか、今や甘ったるさと苦さとが刺々しく感じられるような代物だった。
揶揄いを湛えた眼差しで僕を見詰める彼女に対し、慇懃な口調にてこう申し上げてみる。
「薄っぺらなポエムなどを披露してしまい、ホントに申し訳なかったです。
お詫び申し上げます。
しかしですよ、何でまた春になると死にたくなられるのでしょうか?
別れとかに引き起こされる訳でもないんですよね?」
はぁ…、と彼女は小さく溜息をつく。
その両手で抱え込むようにしてマグカップを持ち上げる。
音を立てずに2、3口、中の液体を啜り込み、やや渋面となる。
それから、その視線を窓の外に向けてこう口にする。
「そうねぇ…。
死にたいって気持ち、それは何時だって私の心の中に在るの。
春夏秋冬二十四節句、365日24時間、死にたい気持ちは何時だって私の心の片隅に、まるで蹲るようにして在り続けてるの。
私をジットリと見張るかのようにして」
死にたい気持ちに見張られるだなんて、また随分と大袈裟だなと思った。
この彼女が死にたいと仄めかすのは昨日今日の話などではなく、ここ2年くらいのことなので、別に驚くような話でもないんだけど。
でも、この2年の間に、その死にたいという話が少しづつではあるけれども真剣さを増しつつあるのもまた事実だったりする。
茶化した雰囲気を残しつつも、心配さも帯びた口調にて僕は彼女へと問い掛ける。
「なるほど、そうなんですか…。
つまり、常日頃から抱いている死にたいって気持ち。
それが春になると活性化しちゃうって感じなんですか?」
その顔をやや俯かせた彼女は、視線をテーブルの上へと落とす。
そして、寂しげな表情をその顔に浮かべながら答えを返す。
「そう、ご名答。
君の言う通り、春になると死にたい気持ちが活性化し始めるの。
ただね、厳密に言うと、死にたい気持ちが活性化すると言うよりも、心の中の様々な気持ちがムクムクと動き始めるって感じなの。
喜びだって活性化する。
新しい年が始まるんだなって期待もまた活性化する。
そしてね、誰かを愛おしく思う気持ちだって活性化するの。
いろんなきっかけで、その人のことを愛おしく思ってるんだなって再認識させられちゃう。
でもね、その一方で、その誰かさんを恨めしく思う気持ちだって活性化しちゃうの。
これから一体どうなるんだろうって将来への不安も活性化しちゃう。
これまで抱いてきた辛い思いだって活性化しちゃう。
そしてね、それらが合わさって、死にたいって気持ちが活性化しちゃうの」
彼女のその言葉は、僕の心の中に蟠っている疚しさや遣る瀬無さ、そして恨めしさを刺激するようだった。
その気持ち故か、僕が彼女へ向けて発した言葉はやや突き放すような冷たい調子を纏っていたように思う。
「それでさ、もし死んでしまうとしたら、一体どんな風にして死ぬの?
そこの桜の樹あたりで首吊りでもしてみるの?
夜の間にでもひっそりと?」
『首吊り』という言葉を耳にした刹那、彼女の表情は途端に明るくなった。
その顔に喜色を湛え、惚気たような調子でこう口にした。
「死に方ねぇ、首吊りはちょっと嫌かなぁ。
それって、まるで蓑虫みたいじゃん。
木の枝から紐でぶら下がってるのって何だか間が抜けてない?」
その持って廻ったような言い方にやや苛つきを抱いた僕は、これ見よがしに大袈裟な溜息を吐く。
見せつけるようにして右手でワシャワシャと髪の毛を掻いてみせる。
そして、苛つきを滲ませた口調にてこう尋ねてみる。
「でさぁ、どうやって死にたいの?」
しかしながら僕の意に反し、その苛ついたような態度は何故だか彼女の機嫌を良くしてしまったようだった。
その質問を投げ掛けられたこと自体が嬉しかったのかもしれないけれど。
その顔に微笑みを浮かべつつ、彼女は巫山戯た調子にてこう口にする。
「ごめんごめ~ん、そんなに怒らないでよ。
君が私に抱いている興味や好意に甘えちゃって、調子に乗ったことを言っちゃったのは謝るわ。
ごめんね」
ごめんね、だなんて微塵も思っていないことは良く分かった。
僕が彼女に対してどれだけ興味や好意を持とうとも、どうしようもないことを十分過ぎるほどに知りながら、それを口にする態度は恨めしくすらあった。
けれども、僕は機嫌を直したていで、そして慇懃な口調にて彼女へと疑問を投げ掛ける。
「お気遣い頂き恐縮です。
それでですね、一体どのようにして死にたいとお考えなのでしょうか、わが姉上さまは?」
そう。
目の前にて死にたいと宣っているこの彼女は、僕より1つ歳上の姉なのだ。
とは言っても血の繋がりは無く、親同士の再婚で姉と弟との間柄になったんだけど。
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