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ギィ……
月の出る宵の頃、街から帰ってきたシルクは慎重に家のドアを開けた。てのひらに乗せたものへ目を落とすと、ゆるく垂らしていた三つ編みも揺れる。
それは先ほど庭で拾ったものであり、白いハンカチでやさしくくるんであった。
はじめはヒヨドリでも落っこちてきたのかと思った。
家の庭では、夏になると凌霄花がどっさりと咲く。ぐんぐん蔓を伸ばして屋根へ這い上がろうとしているので、そろそろ魔法をかけて繁殖を抑えなければならないなと思っていたところだった。
魔女の娘がふと見上げた先、夜の灯火のような橙色の花の隙間からぽとりと黒い塊が現れたのだ。一瞬翼が見えたので鳥だとわかった。花の蜜をいただいているうちに脚でもすべらせたのだろうか?
にゃ〜ん
居間へ入ると黒猫がぴょんと飛び込んできた。首輪の鈴がチリリと可愛らしい音を鳴らす。主人が身にまとう紫のローブの裾にすり寄り、撫でてくれと甘えてくる。
「ただいま、チャコ」
チャコと呼ばれた猫はシルクが手に持っているものに気がつくと、早速らんらんと翠の目を光らせて身を伏せた。
「この子はだめ」
シルクは両手を高く掲げて猫から遠ざけた。棚からクッキーの入っていた空き箱を見つけてきてテーブルに置く。ハンカチにくるんだ小鳥をそっと寝かせてやった。それから使わなくなった瓶にお湯を入れ、湯たんぽとして置いておく。
てのひらサイズの鳥はじっとしたまま動かない。ケガはしていないようだし、羽もきれいにそろっているのでひな鳥でもなさそうだ。一晩寝かせておけば元気になるだろうか。
頭の冠羽が力なくしょんぼり垂れている。哀れな小鳥を見て魔女はつい、くすりとほほえんだ。
シルクが弱っている小鳥の世話をしている間、黒猫はテーブルの上で箱の中をじっとのぞき込んでいた。ときどきしっぽをゆらりと振る。我慢強い猫であったが、主人がよそ見をしている隙にそお〜っと前足を伸ばしたので、シルクは小悪魔を戒めた。
「めっ。残念だけど、あなたのご飯じゃないのよ」
シルクは猫にニボシをあげてなでなでしてやった。
「今夜だけあっちに行っててね」
にゃあ~と不服そうな声を出すチャコを部屋から追い出したあと、シルクはテーブルに紅茶と数冊の本を積んだ。
「ふう、やっと静かになった」
一息つくと、シルクはやれやれとイスに座って香りの良い紅茶を楽しんだ。仕事で依頼された魔法薬を精製するために、難しい薬草の本を開く。
時計のコチコチ鳴る音が心を鎮めていった。
図鑑に描かれた植物のイラストが好きなので、ときどき関係ないページを開いたりする。お気に入りは深夜の限られた時間に咲く毒の花。その鮮やかな瑠璃色を見ると、いつも吸い込まれそうになった。
ページをめくっているうちにのめり込んでしまい、シルクは蓋をした箱の中で何が起きているのか気がつかなかった。
コトコト……
箱の中で音がする。
顔を上げたシルクはしばらく様子を見ていた。
コト…コト
「起きたのかしら」
回復が早そうなのでほっとした。シルクは本を閉じてテーブルに置いてから、ちょっとだけ蓋を開けてみた。
目を覚ましたらしい小鳥は、ハンカチの中から頭を上げて、クチバシで箱をつついているようだ。
「元気そうね」
よかった。お腹がすいているならハチミツでもあげようかと思っていたのだが、このまま外へ放してもよさそうだ。
シルクはパカッと蓋を外すと、箱を持って窓辺に寄った。
小鳥は黒灰色の翼を持ち上げて、今にも羽ばたこうとしている。
窓を開けると、夏のぬるい風が吹いてきた。すぐ近くに凌霄花の深い橙色の花房が垂れ下がっている。その横で遠くの星がチカチカとまたたいていた。
「さ、元気になったらいつでも出ておいき」
シルクは花と星に捧げるように小鳥の入った箱を空へ差し出した。
ピュルルリリ……
細く高い鳴き声が聞こえる。小鳥はゴソゴソ動いているようだ。
パタパタッ!
黒い塊が箱から飛び立った。
「あっ」
小鳥がめいっぱい翼を広げた瞬間、羽の内側に一筋の瑠璃色が目に入った。隠されていた色は部屋から漏れる明かりに照らされてパッとかがやき、シルクの目に焼き付いた。
近くの細い枝にしっかり足の爪をかけた小鳥は、顔を横に向けるとくりくりの黒い目でシルクを見た。頭の冠羽はしなやかに風に揺れている。
小鳥はピュルル、と短く鳴いたあと、ラッパのような形をした花に細いクチバシを差し込んで蜜を吸った。
そのとき、
にゃああ!
バササッ!
突然シルクの視界の隅からもう一つの黒い塊がすっ飛んできた。素晴らしい跳躍力で小鳥を狙った黒猫はむなしく空振りして着地する。チリリン、と首輪の鈴が澄んだ音を立てた。
「チャコ!」
シルクは窓から身を乗り出して、驚きと叱りの声音で黒猫を呼んだ。猫用の小さなドアから家の外へ出たらしいチャコは、獲物を捉える機会を逃さなかった。
黒い小鳥は飛び上がり、一度は見えなくなってしまったけれど、遠くでピュリリ、と細い声で鳴いている。
黒猫は失敗をごまかすように前足で顔を洗いはじめた。何かに気づいて耳がピクリと動いたとき、小悪魔の頭上に逃げたはずの小鳥が素早く接近した。
パタパタパタ……!
「ニ"ャアアァー!」
黒い鳥はお返しとばかりに鋭い爪で黒猫を狙ったが、すんでのところで高く舞い上がり猫の攻撃をひらりとかわす。勇気ある小鳥はもう一度地上に降りてきて燃える目をした肉食動物を翻弄した。どうやら空中戦を制しているのは翼を持つもののようだった。
小鳥が羽ばたくたびに翼の内側の瑠璃色が薄闇に映えた。
あっけに取られていた魔女は、図鑑で見た毒の花の色を思い出した。つい、くすりとほほえんでしまう。
「肝の据わったお客様だこと」
シルクは黒い鳥が気に入った。
「ニャー……」
小鳥は凌霄花の花の奥へ隠れてしまった。黒猫は耳を伏せてじっと一点を見つめたまま動かない。ふだんから魔法の材料にする小動物などを狩ってくる有能な助手は、今夜ばかりは相手が悪かったようだ。
「おいで、チャコ」
魔女はやさしく呼びかけた。
「おまえには、あの子は捕まえられないでしょうよ」
黒猫は呼びかけには応えず、ふてくされてその場から立ち去った。
人生、いや、猫生そんなときもあるわよねとつぶやいて、シルクは空になった箱を抱えながら退場する戦士の背中を見送った。
ピュルルリリリ
橙色の花房の奥で、勝利を謳歌しているような朗らかな声が聞こえた。
「名前をつけたらこっちに来てくれるかしら」
シルクは三つ編みをいじりながらいくつか候補を考えた。小鳥が再びこちらへ戻ってきてくれることを願う。
天敵を恐れない勇敢な鳥に、魔女はひとつの言葉を与えた。
……パタパタッ
瑠璃色の羽をチラチラ見せながら、黒い小鳥が羽ばたいた。
シルクはもう一度名前を呼んで、そっと手を伸ばした。
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