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その人との思い出と言えばこれ、という印象的な記憶は誰しもあると思う。
私と兄との場合、それは高校時代のことだ。
二つ違いの兄は別の高校に通っていたが、放課後一緒に買い物をしたり、ファストフード店でだらだらとおしゃべりをしたり、しょっちゅう二人で遊んでいた。お互い感覚が似ているのか昔から仲が良く、友達と同じかそれ以上の頻度で一緒に遊んでいるので、目撃したそれぞれの同級生から「シスコン」、「ブラコン」とからかわれることもしばしばだった。
ある日の放課後、いつものように駅前で兄を待っていると、ヘラヘラした大学生くらいの男2人に声をかけられた。携帯をいじりながら無視を決め込んでいると、そんな態度が癪に障ったのかいきなり男に腕をつかんできた。抵抗してもびくともせず、声を出そうとしてもか細い震えた声しか出てこなくて、ニヤニヤした男に「いいじゃん。ね、ちょっと遊ぶだけだよ」と強引に連れていかれそうになったその時、「何してんの」と声がした。
今まで一度も聞いたことが無い、冷たく低い兄の声に私まで体が硬直してしまうほどだった。兄は男たちに詰め寄り、「俺の妹なんだけど。嫌がってますよね? 手、放してもらえます?」と凄んで見せた。男たちがモゴモゴ何かつぶやきながら慌てて退散していくのを舌打ちとともに見送った兄は、慌てて私に駆け寄り、ケガはないか、何かされてないか、委員会で遅くなってごめんと質問と謝罪をまくし立て、ほぼ半泣きになりながら私の掴まれた腕をさするのだった。いつもの優しい兄に戻ったその様子にあっけにとられたものの、男らしく守ってくれて、涙目になるくらい心配してくれる兄のことがさらに大好きになった。
電車に揺られながらそんなことを思いだしていると、目的の駅への到着を知らせる車内アナウンスが流れた。2年ぶりの兄との再会は少し緊張する。早めに準備を始めたはずなのに、気づいたら家を出るギリギリの時間だった。この調子だとほんの少しだけ待ち合わせに遅れそう、とメッセージを送るとすぐに「OK!!」と可愛らしいウサギがデカいニンジンを掲げているスタンプが送られてくる。ふふ、と思わず笑みをこぼして、ネコが誠心誠意謝っているスタンプを送信すると、駅のホームに降り立った。
高校卒業と同時に家を出た兄とはこまめに連絡はとっていたものの、バイトや大学の課題が忙しいとかでなかなか実家に帰って来なかった。そのうち私も大学進学とともに上京し、1人暮らしにも慣れてきた頃、兄から「久しぶりに会いたい!ご飯でも食べよ!」と連絡がきたのだった。もちろん二つ返事でOKして待ちに待った今日。久々に会える嬉しさとちょっとの緊張でそわそわする。見た目、変わったかな。髪は切ったのか伸びたのか。服のセンスとか、都会に染まってたりすんのかな。
早歩きで待ち合わせ場所に向かい、目印にしていた時計台の下に着くと兄に電話をかける。
「お兄ちゃん? ついたよ~。遅くなってごめん!」
「あ、ついた? どこだろ…あ! いたいた!」
周りを見渡すと、笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる美人なお姉さん。
美人なお姉さん?
後ろを見ても待ち合わせしているっぽい人はいないし、明らかに私に向かって手を振っている。人違いをされてるのかと思ったけど、お姉さんは電話を耳に当てていて、その声は私の耳に当てている電話からも聞こえてくる。お兄ちゃんの声で。
は? え? ん? お?
お姉さんは、情報が処理しきれずフリーズしている私の前に来ると、電話を切って少し申し訳なさそうに、照れたように、はにかんで見せた。かわいい。
「あのー…久しぶり。びっくりさせて、ごめんね?」
「…えーっと、えーっと…。おにい、ちゃん?」
「うん! まきちゃん、久しぶり!」
お兄ちゃんはお姉ちゃんになっていた。
立ち話もなんだから、と、とりあえず予約してくれていたお店に向かう。私はまだ現実が受け止めきれず、目の前のセミロングヘアーですらっとしたワンピースを着こなす兄だった姉をぼんやり眺めながらついていった。
お店は落ち着いた雰囲気でほとんど個室のようになっており、話しやすいようにここを選んだのかな、と思った。
注文を終えて、沈黙のなか水を飲んでいると、最初に口を開いたのはお兄ちゃんだった。
「あの、びっくりしたよね。ずっと黙っててごめん。一から説明するから聞いてくれる?」
お兄ちゃんの心のなかに女の子がいることが分かったのは、中学三年生の終わりごろだったそうだ。推薦入試で一足先に受験を終えていた兄は、心配事もなく残りの中学生活を過ごしていたが、たまたま本屋で目にした女性ファッション誌の表紙に目を奪われたのだと言う。初めはそのモデルさんが気になったのかと思ってページをめくってみたが、色とりどりのファッションやコスメにどうにもドキドキしてしまい、長々と立ち読みをするわけにもいかずその雑誌を購入した。家で隠れて眺めているうちに、女性のファッションやメイクに強く惹かれている自分に気づき、少しずつファッション誌を買い集めるようになったそうだ。そのうち、自分もこんなふうに着飾りたい、可愛くなりたいという気持ちが大きくなり、高校2年生になる頃にはこっそり服や化粧品を買い集め、自分の部屋で身につけるようになった。自分の中の女性らしさを自覚するのに反して、どんどん男らしくなる体、低くなる声に苦しく思うこともあったが、1人暮らしをすればある程度自由にできる、知らない街で、綺麗に着飾って出かけることだってできるからそれまでの辛抱と言い聞かせた。
無事大学に合格し、上京して1人暮らしを始めてからは、バイトでためたお金で服やコスメを買い集め、休みの日には女の子としてお出かけをするようになったそうだ。
「実家に帰ると何かの拍子でお父さんたちにバレちゃいそうで、怖くてなかなか帰れなかったの。でも、やっぱり知っていてくれる人がいないのも苦しくなってきて…。まきちゃんならきっとわかってくれるんじゃないかって思って、それで今日呼びだしたの」
俯きがちに、それでも懸命に目を見て話そうとする兄を私は静かに見つめながら聞いていた。
兄は話し終えると、微かにため息をついてぎゅっと目をつぶった。
「引いた、かな? 覚悟は決めてきたから、まきちゃんの正直な気持ちを聞かせてほしい」
私は、叱られるのを待つ子供のように縮こまる兄を怖がらせないように、静かに語りかけた。
「そんな大切なことを話してくれてありがとう。引いたりなんかするわけないじゃん。むしろお兄ちゃんが自分らしくいられるようになったって知ってすごく嬉しいよ。男でも女でも、私の大好きなお兄ちゃんであることに変わりないよ」
そう伝えると、お兄ちゃんは目をいっぱいに見開いて、それから顔をくしゃくしゃにして、涙を少しこぼしてから「ありがとう。さすがまきちゃん!」と笑ってみせた。
緊張していた空気も和らいで、運ばれてきた料理を食べながらこれまでのことやお互いの近況を話していたが、ふと疑問に思ったことがあった。
「お兄ちゃんが私を信頼してくれたのは嬉しいんだけどさ、それでもやっぱり話すのって勇気がいることじゃない? そりゃお兄ちゃんとはめちゃ仲良いけど、何で私なら大丈夫って思ってくれたの?」
そう聞くと、お兄ちゃんは照れながら「あのね…」と話し始めた。
「まきちゃんは覚えてないと思うんだけど、一度実家で女の子の恰好をしているときに、まきちゃんに見られたことがあるの」
「その時は文化祭の出し物でやるんだって誤魔化したんだけど、その時の私の恰好を見てまきちゃんがすっごく褒めてくれて。めちゃくちゃかわいい、友達に自慢したい!っていってくれたの」
だから、まきちゃんなら大丈夫かなって。
嬉しそうに、懐かしそうに目を細めるお兄ちゃんに言われ、そういえばそんなことがあったな、と思いだした。文化祭の出し物という誤魔化しをまるっきり信じた私は、こんなにも可愛くて綺麗になったお兄ちゃんのことが誇らしくて仕方なかったのだ。今のお兄ちゃんも女装とは思えないほど美人だが、思えばそのころからお兄ちゃんはとっても可愛かった。
私がお兄ちゃんに守ってもらった思い出を大切にしているのと同じように、お兄ちゃんも私が女の子のお兄ちゃんを褒めちぎった思い出を大切にしてくれていたんだな。思いかえせば、私を助けてくれた時のお兄ちゃんはすでに女の子だったんだ。涙目になっていたのだって、ほんとはお兄ちゃんも怖かったからなのかもしれない。
それから話も弾み、そんなにかわいいのに「お兄ちゃん」って呼ぶのもおかしいね、名前をもじって「まこちゃん」って呼んでいい?と新しい呼び方も決まったところでそろそろ解散の時間になった。
また今度おいしいスイーツでも食べに行こうと話しながら駅に向かっていると、派手なシャツを着た男に「ねえ二人ともかわいいじゃん。もう帰り? 一緒に飲もうよ」と声をかけられた。昔腕をつかんできた大学生と違い、ガラが悪くて威圧的だ。怖い。でもまこちゃんは女の子だ。前みたいな無理をさせるわけにもいかない。どうしたらいいか分からずに立ち尽くしていると、「私たちもう帰るので他を当たってください」と、まこちゃんが前に出てきっぱりと言い放って、私の手を取り歩きだした。
にっこり笑ってこちらを見るまこちゃんは、やっぱり昔と変わらず強くて優しくて、大好きだ。
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