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 彼は『(そう)』と名乗った。年齢は私の一つ上。  同じ病棟の同じ階に病室がある。看護師さん達と親しそうな様子から、長く入院しているのがわかった。そして泣き虫。  あの日以来、創は出会(でくわ)すたびに箱ティッシュを抱えて目元を染めていた。  染めてない日もあったけれど、私と一緒にいる間に「花粉症だから」と言いながら泣いていた。背を向けられても肩は震えているし、漏れる嗚咽に「花粉症なわけないじゃん」と思った。  思いながら、その度に背をさすってあげていた。  創は今日も泣いている。病室から見下ろす桜に緑が混じり始め、それを窓際に立って眺める私も泣いていた。  私の病室。  個室だからと周りの目を気にせずにいたら、あまりにも気を抜きすぎていたのか扉が開きっぱなしだった。  部屋の前を通りかかった創に「開いてるよ」と教えられ、まだ目元の染まっていなかった創は私の病室に入ってきた。ベッドに腰掛け、私に背を向ける。  「今日はここにしよう」とばかりに息を吐くと、いつも通りに肩を震わせ始めた。  私はそんな創に、今日ばかりは背をさすってあげられる余裕はなかった。  私の隣にはスタンドが立ち、そこから私の腕へと点滴チューブが繋がっていた。自由を奪われた気分。  ここの住人になってしまったんだと、長く辛い階段にとうとう足をかけてしまったと、改めて突きつけられていた。  ――入院後の精密検査の結果は思ったよりひどかった。「若いから進行が早い」と医師に告げられ、想定していたよりも入院期間が延びてしまうらしかった。  繋がれた点滴はまだ副作用には至っていないけれど、これからのことを考えると憂鬱でしかない。  なんで私が。  そう思うと涙が止まらなく、こぼれだす嗚咽は一際大きくなっていた。 「(あや)ちゃん」  創が私を呼ぶ。  泣き顔を隠さず振り返れば、私のベッドに腰掛けて背を向けていた創が私を見ていた。濡れた目元だけでなく鼻まで赤く染め、私と変わらずしゃくりあげていて。  とん、とその隣に手を置いた。 「こっちおいで」 「……うん」  警戒はしなかった。  出会って数日の男と部屋で二人きりだとか、その上でベッドの隣に誘われているだとか。健常なら絶対にお断りな状況だけど、前提としてお互いに病人だ。  それに、いつも会う度に泣いている創には男を感じたことがなかった。  私は素直に創の隣に腰を下ろした。 「今日は俺の番」  創の手がぎこちなく私の髪をすべる。  加減がわからないのか、それとも今になって多少の遠慮を見せたのか。髪の表面だけを触れるような撫で方はあまりにも優しく、物足りなさがあった。  何度も撫でてくれるその手は男の人らしく大きくて、なのに触れる面積はどうにも少なくて。  くすぐったさと、同時に心地よさを感じて、不思議と喉の奥にある苦しさは消えていった。  創も、私に撫でられて同じように感じてるのかな。  そうだったらいいなと、何気なく思った。  すん、と鼻のすする音。私の髪を変わらず撫でる創はいつのまにか涙を収めていて、目元の染まった静かな眼差しで私を見つめていた。  高さの違う顔を見上げると、創は思いがけないことを口にする。 「俺たち、付き合わない?」 「え?」  私は二の句が継げず黙った。  ぽろ、と見開いた瞳から一粒だけ涙が落ちる。  この人、何言ってるんだろう。  ふざけているようには見えないけど、そんな冗談を言う人なのかな。  創のことはたった数日の人柄でしか判断できない。その印象で一番にくるのは『泣き虫』なわけで、やっぱりそれ以上のことは知るはずもなくて。  創にしたって私のことを全然知らないはずなのに、なぜそんなことを言うんだろう。  私のことを好き?  どうして? そんな素振りはあった? まさか、私の前で泣くことがアピールだったの?  ……ううん、さすがに、そんなわけ。  人の気持ちは近ければ近いほど分からないことがあるけれど、その近さは私たちには当てはまらないものだ。同じく遠くても分からないけど、それも当てはまらない。  初対面で弱さを曝け出しあった私たちは、遠い他人でありながら一瞬にして距離を詰めてしまった。  お互いの表面を知らずして根底を知ってしまったような感じだった。  だから悪い人じゃないのはわかる。わかるけど、『泣き虫』以上の印象はない。 「えっと……」  冗談にしても本気にしても、ただ一つの事実を私は伝えておくべきだと考えた。 「私、あなたのことは好きじゃないよ」  口に出して、しまったと思った。これでは創を否定するように聞こえてしまう。  私は慌てて「あの、嫌いなわけじゃなくて……そういう風には……」と訂正する。驚き、思考がぐるぐると巡っていたせいで落ち着きが取り戻せない。  創は私の答えを聞いて数回瞬きしたあと、ふっと小さく吹き出した。私の髪に置かれていた手を引き、その甲で口元を隠した。 「うん、それはわかってる。万一にもないだろうなって……でも、突きつけられると結構ぐさっとくるね」  その返事に私も同じく、ぐさっと刺さる。  そういう風には見ていないけど、よくわからない距離感で数日を過ごすうちにそれほどには好意を抱いていたらしい。  私は小さくなって謝った。 「ご、ごめんなさい」 「いいんだ。俺の言い方も悪かったから」  創はティッシュで私の涙の跡を拭ってくれる。  明かされた口元は笑いを引きずっているのか綻んでおり、穏やかな調子のままで続きを話した。 「俺たちは病院っていう閉鎖空間で、それぞれに苦しみや痛みを乗り越えていかなきゃならないでしょ。家族や知り合いがお見舞いに来ても、その辛さは分かち合えるものじゃない。励ましなんてちっとも慰めにならない」  涙を拭き終わったティッシュはほんのり湿り、創の手のひらの中でくしゃりと握られた。  その握り込んだ拳を創は見下ろしている。 「でも、一緒に泣ける相手がいたら……少しでも、寄り添いあえる相手がいたら。言葉はなくても、背中をさすってくれるだけで十分。お互いにとって、何よりもここでの生活で支えになると思うんだ」  変わらず穏やかな口調で、けれど綻んだ口元はきゅっと引き結ばれた。  顔を上げた創は、改めて私を見つめる。 「俺たち、付き合わない?」  恋愛感情は含まれないはずの二度目の告白。  好意はないとわかっていても、真剣に向けられた眼差しから創の緊張が伝わってくる。  創の言い分はよく理解できた。共感さえできるほどに。  けれど簡単に返事を出せるものではなく、続く沈黙はお互いの頰に少しずつ紅を差した。
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