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「……あの老婆だけは、どうも苦手だ」
男も玄関を潜ると、シウも不審者探しを諦めて宿に戻った。ロビーは静まっており、誰もいない。皆、朝食を摂ろうと大方ダイニングに集まったのだろう。
そう思ったのも束の間、リビングのほうで微かにピアノの音が聞こえた。シウがそちらに視線を遣ると、四号室の女とリースが並んで高低椅子に腰かけていた。
女はか細い指に自分の右手を重ね、リースに鍵盤の弾き方を教えている。一見するとピアノの練習をしている平穏な光景だが、実際は他人の目を誤魔化すための、ひとつのやり方にすぎないなのだ。
リースの躰には、さりげなく女の左手が回されているが、上膊を撫でる手つきは一線を越えたものだ。まるでそこが鍵盤であるかのように、指先が肌に食い込んでは弾かれる。
「そう、上手よ。もっと滑らかに指を使うの、髪を結うときみたいに……」
女はリースの腕にかかった長髪を後ろへ束ね、毛先を掬ってキスをした。横を向くリースの耳には、あのフープイヤリングはされていない。当然だ。彼女は昨日、うっかり車内にアクセサリーを落とし、今はシウが持っているのだ。
直接渡すのを躊躇ったシウは、フロントデスクに忘れ物を置いた。四号室の女も、そろそろ恋人の許に帰る頃だろう。あの男が待ちきれずに、ダイニングで貧乏揺すりをしている姿が容易く想像できる。
他の宿泊客より遅れて、老女が二階を下りてきた。彼女はテーパードパンツに指を引っかけて、颯爽とシウの前を通り過ぎる。何の気なしにシウが目で追っていると、老女は突然振り返って低い声を放った。
「どうだい、その絵は?」
「……どういう意味でしょうか」
「恥辱を受けてるって表情がイマイチだと思わないかい?」
シウは指に挟んでいた鉛筆画を再度眺める。男がいるのは、ソファの上だ。
「室内よりは、ビーチがいいかと」
「あんたも、なかなかやるね」
老女は口の端を上げてダイニングへ入っていった。
シウも後へ続こうとしたとき、厨房からレイが出てきて裏玄関へ歩いてゆくのが見えた。彼は納戸からモップとバケツを手にして、外に姿を消す。ジンの苦情で、海鳥の糞を掃除しに行ったのだ。
一方で厨房をちらりと窺うと、コールドテーブルではセトが、大きな牛乳瓶に両手を添え中身をジョッキに注いでいる最中だった。彼の言う睡眠効果は抜群のようだ。
和やかな朝を迎え、今日もバカンスを楽しむには最高の日になるだろう。シウは欠伸を噛み殺し、自身もダイニングの席で食事を待った。
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