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失恋は卵かけご飯と共に
「……フラッシュバックだ」
誰もいない放課後の教室で私は一人呟いた。
グラウンドから野球部の力強い掛け声が聞こえてくる。その中で誰よりも威勢のいい、人を元気にさせる声。私の大好きだった沢村君の声だ。その声を聞くたびに一瞬にして、一週間前の今日に戻ってしまう……
「私、沢村君のことが好きです」
人気のない校舎裏が怖いくらい静かで、グランドから微かに聞こえてくる部活の声に胸がざわざわした。
意中の沢村君は驚いたように目を見開いてから、銅像のように固まった。私は焦って口を動かす。
「席が隣になった時から……」
必死に言葉を紡いでみたものの、何だか違和感を感じて黙ってしまう。救いを求めて足元に転がる石を探したが、そんなところに私の気持ちが転がっているはずもない。
言葉の旅に出てしまった私と沢村君は、校舎裏にひっそりと生えている雑草のように、ただ息をしていた。
沢村君が口を開いたのは五時を知らせるチャイムが鳴ってからだ。
「ありがとう。椎名さんの気持ちは嬉しいよ。だけど、ごめん。付き合うことはできない。椎名さんには俺なんかよりもっと素敵な人がいるよ。大して取柄もない俺なんかじゃ勿体ない」
「……」
「じゃあ、俺は行くね」
「うん。またね」
私は笑顔で彼に手を振った。一人取り残された私は壁にもたれかかる。
ああ。それは、それは優しく美しい言葉でフラれたものだ。綺麗すぎて、ドラマとか映画の台詞みたいだった。
「沢村君がいい」
声を荒げて、魂をぶつけるようにそう叫べば良かったのかもしれない。
だけど、どうしても言えなかった。彼は他人事のような言葉しか言ってくれなかったし、私も素をさらけ出す勇気がなかったから……
私は姿勢を崩し、まるでしぼんだ風船みたいに教室の椅子にもたれかかった。外は騒がしいのに自分のいる教室だけは妙に静かで、私は思わず涙目になる。
「……好きになんなきゃ良かったな」
恋さえしなければ、彼のずる賢い台詞を聞くこともなかったし、そんな台詞を言わせてしまった自分の不甲斐なさも知らずに済んだのに。私が大きなため息を吐いたとき、教室の扉が乱暴に開いた。
「椎名さん!大変!」
クラスメートの久保田さんが凄い勢いで教室に飛び込んで来た。全身に滝のような汗をかいている。その突然の出来事に私は思わず体を起こし、久保田さんをじっと見つめた。私の席に彼女が突進してくる。
「卵かけご飯だったのよ!」
「へ?」
きょとんとする私にかまわず、彼女は大げさに手を動かしながら言った。
「夕日がね、夕日が割れた卵みたいで、空が卵かけご飯みたいになってるの!」
まるで世紀の一大ニュースを発表するニュースキャスターみたいな真剣さで私に訴えかけた。
「……え?」
「だから!空が卵かけご飯みたいになってて凄く美味しそうなの!」
「……」
「……あれ?」
ようやく私が涙目であったことに気が付いたのか、彼女が石のように固まった。静かな夕方の教室が一層静まり返り、沈黙が続く。久保田さんが茹蛸のように赤くなった顔を一層赤らめて言った。
「……ごめん。タイミング悪かったか……」
彼女は乱れた髪を一層掻き乱し、背中を海老のように丸めながら、ドアに向かって歩いて行く。まるでお母さんに怒られた子供のようだ。
「……恥ずかしい。またやっちゃった」
本気で反省しながら廊下を出ようとする彼女は、失恋した私よりも何倍も落ち込んでいるようだった。
彼女はこれだけを伝えるために、死にそうな顔でここまで走って来たのだろうか。彼女の乱れた髪、これでもかというくらいに開いた目、必死に伝えようと手足をジタバタさせる姿、茹蛸みたいな頬、なぜか世紀の大発見をしたかのような無駄な迫力。
……というか、そもそも、卵かけご飯ってどういうことだ?
「ぷは」
私は我慢できず、反射的に噴き出した。
さっきまで悲しみの淵にいたはずが、何かが弾けたように笑った。久保田さんは振り返り、拍子抜けしたように私を見つめる。
「ごめん、色々可笑しくって」
「そ、そんなに笑わないでよ!私、凄く恥ずかしかったんだから!」
久保田さんが余計に恥ずかしがるのを見て、また可笑しくなってくる。
どうして人の恥ずかしい所を見た瞬間ってこんなに可愛くて愛おしいんだろう。カッコいい所や美しい所より、何倍も人を魅了する。
私は袖で涙を拭った。今日は感情がぐちゃぐちゃだ。ぐちゃぐちゃだけど、悲しみと面白さが共存しているこの不思議な感情も悪くない。
「あのさ……良かったら一緒に見に行こうよ」
久保田さんが照れ臭そうに手招きをする。
「うん」
私は軽やかに走り出した。何か楽しいものが待っている、そんな胸の高まりを感じて。
今日は……失恋を思い出して涙ぐんだ悲しみの日。
嵐みたいなあの子と友達になった希望の日。
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