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――万物は流転する。
もちろん人間も例外ではない。変化し、いずれ朽ちて無くなる。だからこそ美しいのだろう。しかしその反面、不変不朽のものをこそ美しく、愛しく思う気持ちも同時に存在する。
空中都市第三地区。
気圧調整された強化ガラスのドーム内。街の中心部に円形に公園が広がっている。
「あなたが探されていた行方不明のご友人ですが、無事見つかりましたよ。色々と事情があるようで名前を偽って隠れるように暮らされていたので時間が少々掛かってしまいましたが。」
癖の強い黒曜石色の長髪を乱雑に一束に纏めた男は、カフェのテラス席の向かいに座る女性へ紙の束を差し出した。
「こちらが今回の調査結果の報告書になります。」
青白い肌、彫りの深い顔に目の下の濃い隈がより一層目立つ。疲れ果てくたびれたように見えるが、年齢は三十代後半くらいだろうか。黒い細身のスーツをラフに着崩している彼は、ここ空中都市の中階層で探偵業を営んでいた。
「ああ、エインズリーさん。なんとお礼を言ったらいいか。彼女を見つけてくださってありがとうございます。どんな事情があろうと彼女が無事に生きていることが分かっただけで十分ですわ。」
受け取った報告書に目を通し終えると、婦人は目に涙を浮かばせて顔を上げた。
「いえ、仕事なのでお礼なんて結構ですよ。」
「本当にありがとうございます。報酬はすぐにでも指定の口座へと入金させて頂きますわね。」
まだ若く上品な雰囲気を纏った婦人は椅子から立ち上がると深々とお辞儀をした。
シンプルなデザインながら高価そうな服といい、身につけているアクセサリーの質といい、彼女は恐らく上階層の裕福な家庭の若妻といったところだろうか。依頼人である彼女と行方不明だった友人の女性との関係は複雑そうだが、しっかりと報酬が払われるのであれば依頼主がどんな人物だろうが、どんな複雑な事情があろうが構わないというのが彼の考え方であった。
「シャーロット、帰る時間よ。」
婦人は少し離れたところで遊んでいた幼い娘を呼んだ。四、五歳くらいだろうか。シャーロットと呼ばれた少女は天使のような金髪の巻き毛を揺らしながら、人形を片手に駆けて来た。
「お母様、やっとお話終わったの?わたしもクラリスも待ちくたびれちゃったわ。」
少女と同じ金髪をした青い目の人形を机の上に座らせ、少女は頬を膨らませた。
「やあ、待たせてしまって申し訳ない。彼女クラリスって名前なのかい?素敵だね。」
ぬいぐるみというよりも、ほっそりと白く長い手足をもつ人形はチュチュこそ着ていないが、精巧に作られたバレリーナといった様子だった。今は机の上で少女の手に支えられ、手足を投げ出して座っている。
「ええ、そうよ。クラリスはとってもお歌が上手なの。一曲聞かせてあげてもいいわって彼女はそう言ってる。」
「それは光栄だ。では一曲お願いしようかな。」
くすくすと悪戯っぽく笑いながらシャーロットは、人形を持ち上げて机の上に立ち上がらせると恭しくお辞儀をさせた。
そっと静かに小鳥が囀るような透き通った歌声が響く。曲はなんて事はない、きらきら星。青い目の小さな人形のバレリーナは、机の上を舞台に少女の手によって歌声に合わせて長い手足を伸ばし、くるりくるりと優雅に舞っている。
男は手拍子とともにこの短い間の小さなステージを見守る。
歌の終わりとともにクラリスはポーズを決めてゆっくりと動きを止めた。
「ね?クラリスのお歌上手だったでしょ?踊るのもとっても上手なんだから。」
「本当に上手だったよ、素晴らしい。」
拍手を送りつつ探偵は上着のポケットから硬貨を一枚取り出し、人形の手に握らせた。
「良いものを見せてもらったからね、これはチップだ。」
「まぁ、エインズリーさん。そんないけませんわ。娘のお遊びに付き合って頂いたのにチップだなんて。」
婦人は大きな音を立てて慌てて立ち上がった。
「いえ、実際シャーロットとクラリスの歌と踊りは素晴らしかった。チップを受け取るだけの価値はありますよ、奥さん。」
クラリスを胸に抱き、恐々と母親の顔を伺うシャーロットの頭を撫でつつ、探偵はゆっくりと立ち上がった。
「さて、長時間お時間を頂いてしまって申し訳ない。次の仕事があるので私はここで失礼させてもらいますね。」
ヒラヒラと手を振り、結局すべてを受け入れて深々とお辞儀をする婦人を横目に、探偵はカフェを出て昼過ぎの柔らかな陽が燦々と降り注ぐ公園を歩き始めた。
昼はとうに過ぎたがまだまだ空は青く、夕方と呼ぶにはもう少しだけ時間がある。
次の仕事があると言って出て来たが、実際にはこの後の予定は何もなかった。月に何度かある仕事がほとんどない暇な日だ。ぼんやりとした頭で久しぶりの休日をどう過ごすか考えていると、上着の胸ポケットに入れた端末に着信が入った。
「はい、こちらエインズリーです。」
「よお、ダレン・エインズリー。おまえいい加減秘書くらい雇えよ。オレがずっと言ってやってるだろう?」
ねちっこく人を馬鹿にしたようなこの声は、気まぐれで仕事を回してくる何でも屋のブラッド・ラッカムだ。
「悪戯電話ならすぐに切るが、ちゃんとした要件はあるんだろうな?」
ため息をつきながら一応話は聞いてやる。これでも気まぐれではあるがたまに仕事を紹介してくれる仲だ。
「あーあー、ちがう。今日は機嫌がいいからとっても素敵な仕事をやろうと思ったんだよ。」
耳障りな笑い声が聞こえてくる。思わず男は顔を顰めた。
「今どうせ出先なんだろう?ちょうど良い。ダレン、お前今すぐ中階層第六地区病院へ行け。依頼人が待ってるからな、急げよ。じゃあまたな。」
一方的にラッカムからの電話は切れた。
端末の画面を見ると、ご丁寧に彼から病院の住所と地図がメールで送られて来ている。
「俺に拒否権はないのか。」
ため息をつきながら深く皺の刻まれた眉間を揉み、探偵は依頼人が待つという第六地区の病院へと急いで向かった。
中流階級の暮らす中階層の中でも比較的裕福な人が暮らす第六地区。
夕陽が街を照らす頃、依頼人の待つという病院へと辿り着いた。
「お待たせしましたラッカムより紹介があったかと思いますが、探偵のダレン・エインズリーといいます。」
面会の事務手続きを済ませて依頼人の病室へと飛び込むなり深々と頭を下げ挨拶をする。ゆっくりと顔を上げてみれば、夕陽に照らされ赤く染まる白い病室の奥、ベッドの上で上半身を起こした老人の姿がそこにはあった。
「エインズリーさん、ご足労頂きありがとうございます。レナード・ヘイウッド氏に代わって仕事の依頼をさせて頂いたマリア・ヴェンスキーです。」
細縁のメガネを掛けた理知的なスーツの女性が前に進み出て来て、握手をして挨拶をする。
「早速ですが、ヘイウッド氏はご覧のとおり健康上の問題で話すことができない状態にありますので、わたくしから今回の依頼内容を伝えさせて頂きます。」
ちらりとベッドの上の老人を見やると、呼吸すらもひどく苦しそうな様子ではあるものの、白く濁った青い目を真っ直ぐにこちらに向けている。
酸素マスクをつけて身体中に管やコードが繋がっているが、意識ははっきりとしているようだ。
女性に促され、ベッドのすぐそばに置かれたパイプ椅子に腰掛けると、早速仕事の話が始まった。
「では、簡単にヘイウッド氏の依頼内容を言いますと、とあるオルゴールを探して貰いたいのです。」
「オルゴール、ですか。特徴など細かな情報はありますか?」
女性の銀色のメガネのフレームが光を反射して一瞬煌めいた。
「ええ、そのオルゴールはヘイウッド氏がまだ地上にいた頃に製作し、手放してしまったもので、特殊なものだから一眼見ればわかる……とのことだったんですが。ごめんなさい、それ以上の情報はわからないんです。」
ダレンは再びベッドの上の依頼人に視線を送ると、静かに話を聞いていた老人はゆっくりと弱々しく頭を左右に振った。
これ以上の情報は無いようだ。
「期限は五日後。お受けして頂けますか?」
心臓の鼓動音にも似た苦しげな呼吸音が室内に響く。ひどく静かな部屋だった。
「……正直まだ情報が欲しいところですが、お受けしましょう。」
「ありがとうございます。もし何か確認したい事などありましたらこちらの番号まで掛けて頂ければわたくしが対応いたします。」
そう言って彼女はシンプルな白い名刺を差し出してきた。名前と電話番号。書いている情報もとてもシンプルだ。
「では最後にヘイウッド氏に確認したいことがあるのですが、よろしいですか?」
老人は一度だけゆっくりと力強く目を閉じて、先を促した。
「自分の手で作ったオルゴールを愛しているから探されているのですか?」
弱々しく首を左右に振り、否定の意味を示す。
では何故彼は自分の作ったオルゴールを探しているのか?
ヘイウッド氏はひどく重たげに左腕を持ち上げ、何か伝えようと意思を示した。すかさず付き添いのマリアが書くものとペンを用意して介助をする。
しばらくの後マリアはそっとヘイウッド氏が書いたものを見せてくれた。震える弱い筆跡でそこには「私は自分で作ったものだからそれを愛したのではなく、愛していたからこそそれを作った」と書かれていた。
探偵は顔を上げて老人の顔を見ると、力強い眼差しで真っ直ぐとこちらを見つめていた。
「わかりました。約束の五日後、必ず依頼のオルゴールを探し出してお持ちしましょう。」
別れを告げ病院をあとにし、自宅兼事務所へと足を向けた時には、すでに夕陽は姿を消して街は夜の闇に沈んでいた。
五日。
情報が少なすぎる今回の依頼内容にしては短い期限である。しかし依頼人に残された時間を考えれば五日ですらも長いのかもしれない。
レナード・ヘイウッド。
今では珍しい地上時代を知る数少ない人物の一人であることは間違いない。彼等、地上時代を経験した世代の人々は、高齢化のせいもあるが、強化ガラス内で気圧調整されているとはいえ空気の薄い空中都市での生活に身体が適応できずに、皆揃って呼吸器系に深刻な問題を抱えていた。酸素マスクや苦しげな呼吸音、時折咳き込む姿から例に漏れずヘイウッド氏も呼吸器系に問題があるのだろう。
幸い他に受けている依頼の期限はまだ余裕のあるものばかりなので、この五日間はオルゴールの件に専念できることを喜びつつも、調べねばならない情報の多さに探偵は思わず胃のあたりを抑えた。
「あのラッカムの言う通りそろそろ秘書を雇うことを考えた方がいいかもしれないな。」
街灯の灯った街の大通りを足速に過ぎ去りつつ、ダレンは脳内で急速にやらねばならないことをまとめ上げ、上着の胸ポケットから端末を取り出すと電話をかけた。もちろん相手はいつもの情報屋であるブラッド・ラッカム。
夜はまだ始まったばかりだった。
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