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 その日仕事が休みだった僕は病院を訪れていた。感染症の影響で付き添いは一人 しか許されず、妻と交代するため病室へ向かっていたのだった。外来棟で受付を済ませ、入院病棟へ向かう。 入院病棟へと続く渡り廊下を歩いていると、左手の大きな窓から満開を過ぎた桜が見えた。その桜は主に外来の車両が通る道沿いに並んで咲いており、きらきらと光にあたりながら風に揺れ、少しずつ花びらが散るその姿は美しく、僕は思わず立ち止まって息を呑んだ。  ふと奥の方に目をやると、入院棟が見え、中ほどの階の窓に小さな子供を抱いた女性らしき姿が見えた。少しだけ空いた窓際には、小型の鯉のぼりが飾られていた。僕の住む地域では四月頃から鯉のぼりを上げ始めるため、桜が散り始めるこの時期に鯉のぼりを上げることも珍しくなかった。そろそろ鯉のぼりをあげよう、と僕の父が奮発して高価な鯉のぼりを買った矢先に入院となってしまい、まだ蒼の 鯉のぼりはあげられずじまいなのだった。あの子も男の子なのだろう。絶対によくなって欲しい。心からそう思った。  生命が生まれてくることは奇跡だ、そんな言説を今までどこか嘘くさく感じていたが、蒼がそんな考えを変えてくれたのだった。蒼が生まれてからというもの、自分自身の見る世界に違うフィルターがかかったことを僕は感じていた。  渡り廊下を抜けしばらく歩くと入院棟のロビーへ着いた。エレベーターをあがり病室へ入ると、可奈がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。可奈は少し疲れたような表情で微笑み、お疲れ様、と声をかけた。蒼は先ほどまで泣いていたが、可奈がやっとの思いで寝かしつけたとのことだった。可奈は、 「午前中、先生から話があったよ」 と、蒼の病状を説明してくれた。尿路感染を疑い、入院日翌日に行った膀胱から管を通す検査の結果から、蒼が何かしらの菌に感染していることは確定していること。それが何の菌か判明するまでには、血液の培養が必要なため一週間ほどかかること。まだ何の菌かは確定しないが、状態を鑑み抗生剤の治療が始められていることが可奈に伝えられたそうだ。 引き継ぎを終えトートバッグを肩に背負った可奈が帰り際、ドアの前で思い出したように振り返った。 「あの、鯉のぼりなんだけど。入院になって、こんな時に上げるどころじゃないって思ってたけど......逆にこんな時だからこそ、鯉のぼりを上げるべきなんじゃないかな」 僕もその考えに同感だった。実家には僕たちが住むマンションには上げられないほ ど立派な鯉のぼりが既に届いていた。僕は父に鯉のぼりを上げてもらうよう連絡することを伝え、可奈を見送った。  寝息を立てて寝ている蒼の左手には板が包帯で固定され、点滴の管が刺されており痛々しく見えた。リモコンを手に持ち、教育テレビからチャンネルを変えると、お昼のワイドショーをやっていた。海外で起こった戦争に対するデモの映像が流れている。隣国に避難した、子供を持つ母親たちのデモだった。その戦争では多くの子供達が無慈悲に殺されていた。彼女たちは赤く染まった包帯でぐるぐる巻きに された子供の人形を腕に抱えながら行進していた。  当然のように、この世界には救われる子供と、救われない子供がいる。蒼が生まれてそんな現実を切実に感じるようになった。こんなことは、一年前には考えもしないことだった。だがそんなこと、一年前にも、いやもっと前から、ずっと起きていたことで、自分が見ないようにしていただけに違いなかった。
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