《序章》

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 翌朝、登校するために外へ出ると、世界の放つ色が変わっていた。明るい部分は眩しいほどに明るくて、暗い部分は漆黒なほど暗く見えた。たった一篇の小説を読んだだけで、私は大きく変化していた。風の匂いが分かる。人の声もよく聞こえる。この身を包む世界の温かさと残酷さをありありと感じた。それは転生しても得られないような、魂の鋭敏さだった。自然とまた、涙が溢れ出た。あの物語はハッピーエンドだったのに、何故だか悲しくて仕方がない。どうしようもなく、何かで上書きしたいと思った。  私は家に引き返し、手早く私服に着替えた。学校に休む連絡を入れ、財布だけを持ってもう一度外へ出た。バスに乗り、町内のブックストアに行った。小説のコーナーには、城倉先生の作品が並んでいた。私はその中から二冊を取り、会計した。本を買うということが、こんなにも高鳴るものだとは知らなかった。バスなんて待っていられない。流しているタクシーを拾い、急いで家に戻った。そしてすぐに一冊を選び、ページをめくった。  序文の段階で世界が切り替わった。私は男性となり、うつ病を患う恋人に寄り添っていた。彼女の抱える負の思いが、また私の内部を貫いた。主人公の語りかける言葉が、ダイレクトに胸に届いた。海の中を(たゆ)()うような時間だった。全てが遮断され、全てから隔絶された二人だけの生活。けれども壊れていく純粋すぎる愛。(もだ)え、(なげ)き、私は何度となく潰れそうになった。文字の羅列にあったのは、やはり暗い躍動だった。まったく違うお話なのに、それは私自身を完璧に描き出していた。  食事も水分もいらない。トイレに行くことも休憩することもしたくない。この物語が終わるまで、余計なものは何も欲しくない。(まばた)きも忘れて入り込んだ。この物語を読み終えたら死んでもいいとすら思った。壊れかけた愛が、より(きょう)(じん)に結びつき、他者によって引き裂かれ、また結びついていく。確実にハッピーエンドに向かっているのに、常に悲しくてたまらない。幸せな場面でも、いつ崩れてしまうか分からない恐怖があった。  そして、結末──。非常に温かな、安らぎのある結末。どんでん返しもなく、言ってみれば予想できた結末。だけど、安堵はまったくなく、むしろ悲劇だと思えた。前日に読んだ作品と、今読み終えた作品が(こん)(ぜん)(いっ)(たい)となって心を(えぐ)る。狂ってしまうんじゃないかと思うぐらいに、私は泣いた。涙を出し尽くせば、自分が(きよ)められることが分かっていた。    それからの日々は、城倉先生の作品を全て読み、一度だけでは済まず、何度でも読み返し、その都度私は人間としての階段を一つずつ上っていく毎日だった。芸能人やゲームの話題なんかくだらない。苦労を知らない同世代の子たちがあまりにも幼く見えた。私に城倉先生を教えてくれた彼氏でさえ、ただのつまらない男の子に成り下がっていた。  現代の文豪と呼ばれる所以(ゆえん)が分かった。あれだけ人間を観察し、描写し、他者に影響を与えられる作家はそういない。私は城倉教に入信した盲目な信者のようだった。
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