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またね
広島を過ぎたあたりで、ひと段落した私はパソコンを閉じた。榊原さんはまだ何か打ち込んでいる。チラリと画面を見たら、くるっと向きを変えられた。
「これは機密情報ですから、見せられません」
「大丈夫です、意味わからないし」
「冗談ですよ」
ニヤリと笑う榊原さん。
「知ってます。ってか、それ何語ですか?」
「わかりませんか?ドイツ語です」
「わかりません」
「じゃ、これは?」
スルっと違う画面へ移した榊原さん。
「漢字がいっぱい、あ、中国語だ」
「正確には広東語ですが」
「もう、なんでもいいです。話してるのは日本語なので関係ないですから」
特に言葉に関しては、きっちりしている榊原さん。次はフランス語を勉強したいとか言っている。
“言葉に齟齬があると言いたいことがうまく伝えられません”
なんて事務的な指摘は何度かされた。それでも“僕には小説なんて絶対書けないので尊敬します”とも言ってくれる。
出会って最初の頃、英語の『on』の意味について宿題を出された。私は単純に、上とか乗っているとか答えたけどずっと不正解で、榊原さんが求めていた答えを出すのに3日かかった。
___「その会話の前後の意味や、背景を加味すればすぐわかりますよ」___
その後はよく使う中国語もいくつか教えてもらった。
“中国語しか話せない中華料理店に行って、実際に使ってみてください。そうしないと上達しませんよ”
まだ実際には使ってないけど。
ビールの種類も教えてもらった。
“その歴史を知ってから飲むと、また味わいが変わります。それはワインも同じ”
榊原さんはいろんなことを教えてくれる。でも榊原さんにそれを言うと“僕の方が色々教えてもらってますよ”と言う。
損得抜きで何かしらの意味がある関わりは、ずっと大事にしたい。お互いに尊敬できるところがあるということは、重要なことだと思う。
「次は名古屋…」
到着駅のアナウンスが流れた。
「あ、もう着いちゃいます。早いな、ホント」
私は降りる準備をする。外はもう夜。見慣れた景色が車窓を流れていく。ゆっくりとスピードが落ちて、停車した。乗降口まで送ってくれる榊原さん。
「じゃ、また……」
「はい、またLINEしますね」
「待ってます」
ドアが閉まり、ゆっくりと走り出す。榊原さんはもう見えない。
改札を出る頃、LINEが届いた。
《お気をつけて》
〈榊原さんも〉
はーいスタンプ。
ありがとうございますスタンプ。
またねスタンプ。
私は乗り換えの駅へ向かって歩き出した。いつもと変わらない空気に、楽しかった時間が終わった寂しさを感じるけど、日常に戻れてほっと安心もする。
さぁ、家へ帰ろう。
ーーーおしまいーーー
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