2004年8月7日

1/1
前へ
/4ページ
次へ

2004年8月7日

 夕暮れの道を塾へと向け歩いていた俊一。楽しみも面白味もないあんなとこ。教師にいじられ、馬鹿にされるのがオチなんだから。それでも宿題はきちんと済ませていた。出来がよくないというのは分かっている。いいんだ今は..俊一自身、これまでとは違う自分で行こうと固く心に決めていた。渡辺絵美の言葉が彼の心にある変化を与えてくれたのかもしれない。    街灯が映し出す光を一身に受けながら歩く彼。足元の影が何メートルにも渡って伸びている。小学校低学年の頃、クラスのみんなと休み時間にやっていたかげふみを懐かしむ俊一。影はいつも自分からついて離れない。入口までやって来るとドアノブの取手を回し勢いよく開けた。するとそこに絵美が一人立っていた。「おぉ。」中へ入りながらも愛想笑いを見せる。彼女は何も言わずそのまま上がっていった。釈然としない表情の俊一。靴を脱ぎスリッパへと履き替えるとスタスタ二階への階段を上がろうとする。    教室のドアを開けるとそこにはもう勉強体制へ入ろうとしていた同級生たちがテキストやノートを机に広げ、授業が始まるのを今か今かと待っていた。話をするものはほとんどいない。教室の前には英語教師の池田がいる。俊一の入室にこれといった反応を示す人はいない。いいよ別に。そのほうが楽や。  わずかに空いていた狭い椅子に腰を下ろした彼。向かい隣りには絵美がいた。精神的闘いなんやろうなきっと。親父は嫌いやしこの塾も嫌い。だけど勉強はしないといけない。自分にとって必要な。決めたことを途中で放棄するわけになどいかない。   「みなさんこんばんわ。時間になりましたんで始めますね。ではまず初めに前回の宿題を返します。」A4サイズのプリント用紙を返していく池田。30手前の若いインテリ系女性だ。高校とか大学卒業してすぐこの道へと進んだんやろな。「久保さん。」何が楽しいのか。堅苦しい勉強なんか教えて。「梶田君。」俊一の横で立ち止まった池田。「間違いが多すぎます。復習問題ですよ全て。この間までにやってきた。」用紙を突きつけるように見せながら厳しい声を出す彼女。「すいません。」  バツ印の多く付いた用紙に苦々し気な視線を投げる俊一。「私の教えたことが十分頭に入っていないようです。このままの調子で他の生徒と進んでいくのにはいささか問題があります。」池田はちらっと横目で絵美を見た。それからしてずり落ちた眼鏡を押し上げる。「デキル子の足を引っ張るようでは困りますね。時間の無駄遣いになるどころか学費だってもったいないでしょう。どの先生もみな同じ考えだと思います。」間を置いた池田。俊一の反応を伺っているのだろう。彼は教師と目を合わせないようにしていた。    「どうします?帰りますか今日は。遅れている分、土曜日に補修の時間を設けますが。」用紙を机に押し付けた池田。「やりますよ。」ぶっきらぼうな返事をした俊一。ちくしょう。また馬鹿にされた。彼の発言など意に介さないかのような表情の池田。君じゃ無理だよとでも言いたげな感じすらした。どいつもこいつも..イライラしつつも絵美のほうへと視線をやった俊一。《この塾へ入ったのも自分のためなんです。厳しいことを知った上で選びました。》言ってたよな確か。  ホワイトボードを見ながらも懸命にメモを取ろうとする様子の彼女。《確かに私はできません。でも努力はしてる。上を目指し、懸命に這い上がろうとしているんです。雑草のように踏まれても踏まれても立ち上がる。》強い子や。今の俺とはまるで向上心が違う。   「ここの訳文を渡辺さんお願い。」池田の声がした。ドギマギしながらも絵美は答えた。「彼は本を二冊持ってます。しかしそれは私のものです。」「できるじゃない。そうやって頑張るの。」感心したように池田は言った。頭を下げた彼女。ありがとうございますと言いたかったのだろう。俊一も思わず拍手したい気持ちになった。  授業終了後、かばんを手に絵美のもとへと行った俊一。「踏まれても立ち上がったな。有言実行というかさすが」「やるべきことをやったまでです私は。頑張ってくださいね補習。」わずかに笑顔を見せたかのような表情の絵美。「あ、あぁ。」補習に呼ばれたのは俊一一人だけだったのだ。  部屋を出ようとした絵美。小さな背中が消えようとしていたその時、俊一は思い切って言った。「今度話でもせえへんか一緒に?付き合ってくれとかそんなんやない。何かそのぉ話したくなるんやよな。」ドアノブに手をかけていた絵美はくるりと振り向いた。何ともとれぬ難しい表情だった。張り詰めた緊張感が場を満たす。  俊一の心臓が激しく脈を打つ。それからしてゆっくりと頭を下げた彼女。  「ごめんなさい。外では会えません。親が厳しいので。」それだけ言うと足早に出ていってしまった。一人残された俊一。そうか・・だよな。早まり過ぎた俺が。頭を抑えた彼。それでも思っていた。絵美が好きだと。同じような立場で生きる人間だからこそ相手のことを思いやれるし、気にも懸けられる。この塾へ入ってからすぐ、俊一は絵美のことを意識していた。   
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加